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唐糸六郎夫婦墓と唐糸力石

記事 NO.7885     彩2022 伝説の力石

2022年6月7日訪問
若小玉(行田市)
若小玉の力石
唐糸たもと石 唐糸力石

若小玉の力石 2022-06-07

藤原町と若小玉の境に鎮座する「塞神」
この道を進んでいくと

行田市若小玉「龍泉寺」 2022-06-07

医王山龍泉寺があります

若小玉 龍泉寺客殿庫裡落慶記念碑

龍泉寺客殿庫裡落慶記念碑をみると

落慶記念碑  唐糸六郎

「江戸時代初期に活躍し相撲史に名を残した唐糸六郎の夫婦墓」
があると記されています

若小玉 龍泉寺山門

山門をくぐり少し行った左手に『唐糸六郎夫婦墓』があります

若小玉 龍泉寺 唐糸六郎夫婦墓

為花屋源栄禅定門菩提
為花的妙栄禅定門菩提

若小玉 龍泉寺 唐糸六郎夫婦墓

唐糸六郎は忍領若小玉の怪力無双の力士です

▽三代将軍徳川家光の頃にはすでに若小玉にあった
この石には 次のような伝説が残っています

唐糸たもと石 唐糸力石 塞神

六郎が18歳になったあるとき
熊谷在の久下の土手まで遊びに行き酒を飲んでいるうち
みんなで力くらべとなった

唐糸たもと石 唐糸力石 塞神

誰も六郎にかなわない
すると負けた連中が「この大きな石を若小玉までは運べまい」とはやし立てる
美人で名高い小間使いのいる家の庭まで運んだら
その小間使いと一緒にさせてやる というところまで話が進む

六郎は黙って立ち上がり 大きな石を軽々と肩にかついで歩き出し
ついに久下から若小玉まで運んでしまった

唐糸たもと石 唐糸力石 塞神

△六郎が運んできたこの石には「塞神 庚申供養」と文字が刻まれており
『唐糸たもと石』 『唐糸力石』 『若小玉の力石』などとよばれています



詳細は行田郷土史研究会2012「忍の行田の昔ばなし」
第十六話  唐糸たもと石(唐糸力石)をごらんください



唐糸たもと石 唐糸力石
唐糸たもと石 唐糸力石 塞神
埼玉県 行田市 若小玉2213


若小玉 龍泉寺
若小玉 龍泉寺山門

埼玉県 行田市 若小玉2370

撮影:2022年6月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

史跡訪問 小山朝政の墓

記事 NO.7876     彩2022 歴史探訪 鎌倉時代

2022年4月28日訪問
小山朝政の墓(加須市)
史跡 小山朝政墓
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将

小山朝政の墓

小山朝政
鎌倉幕府を支えた小山三兄弟の長男

小山朝政の墓 説明板

加須市指定史跡
小山朝政の墓 (おやまともまさのはか)
昭和三八年九月 指定

 小山氏は、中世下野の藤原秀郷(俵藤太秀郷)の子孫といわれている。保元三(一一五八)年頃に太田政光の子として生まれる。父は武蔵国の太田氏の出であり、下野国小山に移住して小山氏を名乗る。朝政は源頼朝に従い関東の平定、一ノ谷合戦、奥州の合戦などの勲功により下野守護、播磨守護を兼ねる。
 朝政は、暦仁元(一二三八)年三月八四才で没した。
 小山朝政の墓は高さ一四六センチメートル幅四五センチメートルの宝篋印塔で塔身に梵字でキリーク(阿弥陀如来)を刻んでいる。基礎には貞和元(一三四五)年の銘がある。朝政の没年と宝篋印塔の年号からすると墓というより供養塔の可能性が高い。
 南西一〇〇メートルにある徳性寺は、朝政の開基によるといわれている。
  平成二四年三月  加須市教育委員会

小山朝政の墓

朝政は 源頼朝に秀郷流の流鏑馬を伝えるなど武勇に優れ
小山氏永続の基盤をつくりました

小山朝政の墓

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では
俳優の中村敦さんが小山朝政を演じています


小山朝政の墓 謎の石

「小山朝政の墓」の前
切株の根元にある石が気になります

小山朝政の墓 謎の石

力石のようにも見えますが 文字が刻まれていません

小山朝政の墓 謎の石

この石にはどんな物語が潜んでいるのか
想像するだけでもワクワクする謎の石です






小山朝政の墓
小山朝政の墓

埼玉県加須市大越1991

撮影:2022年4月28日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

領家大山石灯籠

記事 NO.7812     彩2022 畔吉領家の灯籠

2022年1月13日訪問
領家農村センター(上尾市)

領家大山石灯籠
ご存じですか領家の大山灯籠行事

領家農村センター

領家農村センター内 大石自警消防第三分団脇に
石造物がならんでいます

領家大山石灯籠

その中に上尾市指定有形民俗文化財の
大山石灯籠があります

領家大山石灯籠 説明板

上尾市内の大山灯籠の多くは木製ですが
石灯籠は市内では畔吉と領家の2か所にしかない貴重なものです

領家大山石灯籠

竿部正面には「阿夫利神社」と大きく書かれています


毎年7月下旬から1週間の祭祀中の初日だけ火が灯され
大山灯籠行事が行われています


詳細については
あげお文化遺産ガイドをご覧ください
↓  ↓
領家の大山灯籠行事




領家農村センター
領家農村センター

埼玉県 上尾市 領家189-3
Qrcode領家農村センター
(Mapion地図にアクセス)

撮影:2022年1月13日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉歴史散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

上尾歴史散歩「平方河岸」

記事 NO.7809     彩2022 平方の歴史を伝える

2022年1月13日訪問
平方(上尾市)

平方河岸と町並み
河岸で栄えた平方

平方河岸と町並み

平方河岸の歴史やその周辺の文化財について
まとめた案内板が橘神社の入口にあります

詳しくみていきましょう

平方河岸と町並み 平方河岸の成り立ち

平方河岸の成り立ち

 「河岸」とは船着場を指し、船による物資の輸送が盛んだった時代に、積み荷の上げ下ろしが行われた場所であった。平方河岸も、荒川の中流域にあたる平方に設置された河岸で、対岸は川越の老袋である。ここは岩槻や原市方面から川越方面へ渡るための渡船場もある交通の要衝であった。
 平方河岸の歴史は古く、記録から江戸時代初期にあたる寛永一五(1638)年以前には成立していたと考えられている。また、平方河岸の舟運を利用した積み出しの最も古い記録である『年貢請取証文』(島村家所蔵大和田村文書)には、天和二(1682)年に平方河岸の問屋・甚五兵衛が大和田村(さいたま市)からの物資を、平方から江戸に送っていたと記されている。このように平方河岸は、江戸へ物資を輸送する集荷先として、平方だけでなく、その周辺の村々からも広く利用されていた。


平方河岸と町並み 河岸の賑わい

河岸の賑わい

 江戸時代後期に記された平方村の記述によると、船の数は常に9艘と定められ、荒川を通る船が集まる所として、既に賑わっていたとある。年貢の他に穀類や醤油、酒などの商品も上げ下ろしされ、上尾や桶川で盛んだった紅花の輸送も、陸送よりも安価だった舟運が多く利用された。
 明治初めには船は18艘まで増え、6軒の船積問屋が活動していた。明治から大正にかけては、下宿・上宿の町場化がより進んだ時期であり、A銀行B煉瓦工場C醸造所をはじめとした、様々な工場や店舗が並んでいた。明治二〇(1887)年には、荒川流域の河岸場で最大の繁栄を誇っていた戸田河岸を上回る取引額を記録している。
 昭和期に移ると、鉄道やトラックによる陸上輸送の発達などにより、舟運のための河岸場は終焉を迎えるるが、河岸が長きにわたり周辺地域に与えた影響は大きく、現代の町並みにもその名残を見ることができる。


平方河岸と町並み 地図部分 観音堂

地図の下方には観音堂が確認できます

平方河岸と町並み 昭和初年 地図

河岸場付近の様子が細かく記されています


平方河岸と町並み 昭和初年 地図 部分

当時の河岸の賑わいの様子が伝わってきます


貴重な平方の遺産が時に埋もれる事なく
次世代へ伝わっていくことでしょう

「力石」についての説明がないのが ちょっと残念でした





撮影:2022年1月13日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉史跡散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡 (埼玉県上尾市)

記事 NO.7807     彩2022 師弟関係

2022年1月13日訪問
平方観音堂(上尾市)

正覚寺(現観音堂)
古くからの教育の場

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡

この観音堂は江戸時代には天台宗正覚寺でしたが
明治初期に廃寺になりました

現在寺子屋の師匠の墓所が多くある所として知られ
「正覚寺寺子屋遺跡」として市の文化財にも指定されています

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡説明板
上尾市指定史跡
正覚寺寺子屋遺跡
観音堂(大字平方530-1)

 正覚寺寺子屋遺跡は、明治初期に廃寺となった天台宗正覚寺の歴代住職の墓所である。墓石群のう6基が筆子塚である。筆子塚とは、江戸時代に寺子屋で教えを受けた筆子(生徒)たちが、師匠の没後、遺徳を偲び建てた一種の供養塔である。
 6基のうち、最も古いものは「権大僧都贈堅者純智法印」と刻まれた無縫塔(卵塔)で、寂年月日は正徳三(1713)年四月一八日、台石には「施主平方村手習子五十三人 同取子十人 同親類五人」とある県内でも古い筆子塚である。このほかに、明和三(1766)年没の鎮饒、文化五(1808)年没の亮舜、文政元(1818)年没の慶典、天保四(1833)年没の戒運、天保一二(1841)年没の円純ら5人の僧の墓も筆子塚である。正覚寺で少なくとも18世紀初頭から寺子屋が開かれ、長期にわたって続いていたことを示す貴重な史跡である。
    上尾市教育委員会


平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡

歴代住職の墓石群

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡

6基の無縫塔(卵塔)は筆子塚でもあります

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡 卵塔

▽県内でも古いといわれる筆子塚

平方観音堂 正覚寺寺子屋遺跡 卵塔

正徳3癸巳4月18日建立されたもので
施主平方村手習子53人 取子10人により建立されました




村の人たちから親しまれ 立派な教育者であった僧ら
その僧らに感謝を伝える 村人たちのあたたかい心が伝わってきました


次回は「平方観音堂の力石」です



平方観音堂
平方観音堂

埼玉県 上尾市 平方530-1
Qrcode平方観音堂
(Mapion地図にアクセス)

撮影:2022年1月13日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉史跡散歩 上尾を歩く
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

森朴斎碑と墓(埼玉県上尾市)

記事 NO.7806     彩2022 森朴斎碑と墓

2022年1月13日訪問
平方観音堂(上尾市)

正覚寺(現観音堂)
明治6年廃寺

平方観音堂

正覚寺は 明治6年廃寺となり
観音堂となっています

平方観音堂 森朴斎碑と墓

観音堂には森朴斎(もりぼくさい)碑と墓があることで知られています

平方観音堂 森朴斎碑と墓

朴斎は桑名の藩士で詩歌俳諧の道に長じ
平方近辺の子弟の教導に当たりました

平方観音堂 森朴斎碑と墓 説明板
上尾市指定史跡
森朴斎碑と墓
観音堂(大字平方530-1)

 森朴斎は桑名藩(三重県)の医師で、名は彰、弘化年中(1844~48)に平方村に立ち寄り、名主の永島太十郎(太重郎)宅に寄留した。朴斎の学識を見込んだ太十郎は屋敷内に学舎を建て、地域の若者を集めた。十数年にわたり300余人が彼の人柄を慕い学んだが、万延元(1860)年五月一二日54歳で没し、正覚寺(現観音堂)墓地に葬られた。
 指定の碑は高さ127cmで、正面上部に「森朴斎翁碑銘」とあり、戸井田広が撰文し、永島氏や門下生等により建立されたといわれる。
 碑文によれば、朴斎のほか「喜良久」「独立庵」の二つの号を持っていたとされる。俳諧を嗜み、身なりに頓着しない生活ぶりから朴斎の号をとったとある。碑陰に「蓮のミの 飛離たる 別れかな」の句が刻まれており、朴斎の辞世の句とされる。万延元年五月一三日付けで筆子中によって建てられた「真誉朴斎浄證居士」とある墓も境内に残されており、碑と共に文化財に指定されている。
    上尾市教育委員会


朴斎の墓
平方観音堂 森朴斎の墓

真誉朴斎浄證居士

この墓は万延元年5月13日
筆子中(子弟)によって建立されたものです


朴斎の碑
平方観音堂 森朴斎の碑

森朴斎翁碑銘

この碑は万延元年秋
子弟がその徳望を敬慕して建立したものです

碑陰
平方観音堂 森朴斎の碑陰


朴斎の辞世の句
平方観音堂 森朴斎の碑陰 辞世の句

「蓮のミの飛離たる別れかな」



次回は「正覚寺寺子屋遺跡」です



平方観音堂
平方観音堂

埼玉県 上尾市 平方530-1
Qrcode平方観音堂
(Mapion地図にアクセス)

撮影:2022年1月13日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉史跡散歩 上尾を歩く
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

長屋門の巨石にびっくり!

記事 NO.7793     彩2021 謎の大きな石

2021年12月11日訪問
永田家長屋門(さいたま市)

永田家長屋門
格式の高さを感じる門

永田家長屋門及び築地堀
<永田家長屋門及び築地堀>

武家造りの豪快な長屋門です

永田家長屋門

ここは 関東郡代伊奈備前守忠次が河川改修や新田開発を行ったとき
陣屋を築いて陣頭指揮にあたったとされる 「土屋陣屋」の跡地で
指揮監督をした功績により永田家が賜ったと伝えられています

永田家長屋門 説明板
大宮市指定文化財(建造物)
永田家長屋門及び築地堀

平成十一年四月一日指定
 長屋門の建築規模は桁行き二十一.一六メートル、梁間四.七五メートル、棟高六.一八メートル、面積一〇〇.五一平方メートルと市内最大規模を誇ります。門の両端に接しているのが忍び返しの付いた築地塀です。
 門扉と潜り戸は堅牢な開き扉で、銅製の八双金具や乳房状の饅頭金具が付いています。また、右手には出格子が二つありますが、市内では希有な例です。
 長屋門及び築地塀の正確な建築年代は判っておりませんが、凡そ江戸時代の後期と考えられます。
 永田家の屋敷地は、江戸時代初期に関東郡代伊奈忠次が陣屋を設置した地で、家臣であった永田氏が拝領しました。長屋門及び築地塀は、周辺の景観によく融合し、かつての陣屋の雰囲気を今に伝えているばかりではなく、木造日本建築の美を併せ持つ貴重な建造物となっています。
   平成十三年三月 大宮市教育委員会

 明治期には、県政会の重鎮であった永田荘作を輩出、大隈重信の改進党に所属し北足立郡の発展に東奔西走し、その任を果し信望を集めました。第一線を退いて以降は政界を断ち、西里と号し、文化活動に力を注ぎました。高浜虚子、徳富蘇峰などの文人墨客の来訪が跡切れなかったといわれています。昭和五年五月には武蔵野探勝俳句会が当家を会場として開かれ、虚子は「いつの世の大蜂の巣や長屋門」と詠んでいます。
(GUIDE BOOK 大宮をあるくⅡ~西部~ 編集:大宮市教育委員会より)


永田家長屋門 駕籠1

長屋門の天井に駕籠が二つ吊るされているのも珍しい!

永田家長屋門 駕籠2

虚子の詠んだスズメバチの巣は見つけることができませんでした


そして驚きなのが門の前に鎮座する巨石です

永田家長屋門 巨石

形や石肌はまるで力石のようです

永田家長屋門 巨石

何のためにこのような大きな石が置かれたのでしょう?

「この屋敷には力持ちの大男がいるんだぞ」
という盗賊除けの石でしょうか?

永田家長屋門 巨石

巨石は神の拠り所といわれます

魔除け 疫病除け 災難除け 延命や厄難除け
を祈願したのかもしれません

永田家長屋門 巨石

重い石をここまで運んでくるのには
たくさんの人足を必要とし苦労もたくさんあったことでしょう


気になる謎の巨石です
どこかに この石についての資料はあるのかな?





永田家長屋門
永田家長屋門

埼玉県 さいたま市 西区 土屋5
Qrcode永田家長屋門
(Mapion地図にアクセス)

撮影:2021年12月11日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉歴史散歩 珍石めぐり
(C)heihei's studio 2010
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テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

渋江鋳金遺跡

記事 NO.7701     彩2021 中世の渋江氏ゆかりの地

2021年8月27日訪問
渋江鋳金遺跡(さいたま市)

埼玉県指定 旧跡
渋江鋳金遺跡
しぶえちゅうきんいせき

渋江鋳金遺跡

行き止まりの道の左側には

渋江鋳金遺跡

渋江鋳物師が鋳物を製造した工房跡
渋江鋳金遺跡の碑があります

渋江鋳金遺跡

発掘調査では鋳物製品を作るための
鋳型や不純物の塊である鉄さい等が出土しています

渋江鋳金遺跡

岩槻区長宮の大光寺には
文明6年(1474)銘の「文明鰐口」が残されています

渋江鋳金遺跡


埼玉県指定旧跡
渋江鋳金遺跡

 中世末期から近世初頭における鋳金工業遺跡で、鋳金とは鋳造・鋳物ともいい金属を溶解し、これを土または石の鋳型に流し込み、冷却してから型から取出し表面を仕上げる技術である。
 岩槻市内の鋳金遺跡は馬込(まごめ)・金重(かなしげ)・村国(むらくに)の三か所といわれているが、確認できる旧跡は村国と馬込である。
 特に村国は、県指定旧跡であり、『新編武蔵風土記稿』には、永禄七年(一五六四)岩槻城主太田氏が渋江鋳物師にあてた古文書が記載されており戦国期における鋳物師の活躍をうかがうことができる。
 また、渋江鋳物師の作品は、高麗郡日高町の聖天院に応仁二年(一四六八)の青銅製鰐口(県指定)があり、市内では長宮の大光寺に文明六年(一四七四)銘の鰐口が残されている。
  昭和三十六年九月一日指定  岩槻市教育委員会


 『新編武蔵風土記稿』に、「旧家者伴蔵 氏ヲ斎藤ト称ス。代々名主を勤メ、傍ラ鋳冶ヲ業トセリ。家系を失ヒタレバ来由詳ナラズ。岩槻太田氏及小田原北条家ヨリ与ヘシ文書ヲ蔵ス。宛名渋江鋳物師トアリ。サレバ往古ハ岩槻渋江町ニ住シ、御入国ノ後当初ニ移リシナルベシ」とあります。


渋江鋳金遺跡

村国の斎藤伴蔵家は
江戸時代に名主を務めた旧家で
鋳物屋敷といわれています





渋江鋳金遺跡
渋江鋳金遺跡

埼玉県 さいたま市 岩槻区 村国
Qrcode渋江鋳金遺跡
(マピオン地図にアクセス)

撮影:2021年8月27日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉歴史散歩 史跡めぐり
(C)heihei's studio 2010
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テーマ : 日本文化
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柳瀬荘

記事 NO.7697     彩2021 Tokyo National Museum

2021年8月19日訪問
柳瀬荘(所沢市)

柳瀬荘
東京国立博物館

黄林閣

柳瀬荘は実業家・茶人として名高い
松永安左衛門(耳庵)の別荘でした

5,000坪を超える敷地内には
武蔵野の面影を今にとどめる雑木林も残され
貴重な自然環境を保っています

柳瀬荘

昭和23年(1948)3月に
東京国立博物館へ寄贈され
現在は毎週木曜日に公開されています

黄林閣 土間

荘内の主要建物である「黄林閣」は
江戸時代天保期の民家の特色をよく示すものとして
昭和53年(1978)に重要文化財に指定されました

黄林閣

荘内には他に書院造の「斜月亭」や
茶室の「久木庵」などが残されています


斜月亭 しゃげつてい

斜月亭

昭和13年(1938)から翌14年にかけて
建築されたものです

斜月亭

東大寺や当麻寺などの古材をもって
造られたと伝えられています

斜月亭

個性あふれる建築となっています


久木庵 きゅうぼくあん

久木庵

江戸初期の建物で
越後の武士 土岐二三の茶室でした

久木庵

解体されていた材料をもって
昭和13年(1938)から翌14年にかけて
建て替えられたものです

久木庵

2畳台目の茶室と4畳ほどの水屋で構成されています




松永安左エ門氏
松永安左エ門氏



柳瀬荘利用案内
柳瀬荘 案内







柳瀬荘
柳瀬荘

埼玉県 所沢市 坂之下437
Qrcode黄林閣
(マピオン地図にアクセス)


撮影:2021年8月19日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉民家散歩 saitama
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テーマ : 日本文化
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プロフィール

へいへい

Author:へいへい

開​設日​: ​20​06​/3​/2​5(​土)​

ヤフーブログから引っ越してきました。(2019/3/7)


四季折々美しい彩の国。見沼田んぼの自然や、埼玉県内及び周辺の観光地・穴場スポット・力石を紹介します。


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