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渋沢平九郎 飯能公演

記事 NO.7753     彩2021 一途に誠を尽くした平九郎の物語

幕末に己の義を貫き
飯能戦争に散った若武者

歌劇 幕臣・渋沢平九郎
飯能公演のお知らせ


歌劇 渋沢平九郎1

2021年12月11日(土)14時開演(13時開場)
飯能市市民会館 大ホール


チケット購入はこちらから
↓   ↓
https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=63021&


歌劇 渋沢平九郎2

武蔵国榛沢郡(埼玉県深谷市)の農民から幕臣となり
飯能戦争に散った若武者・渋沢平九郎を主人公として
彰義隊の頭取で後に実業家となり大成功をおさめた渋沢成一郎
富岡製糸場の初代場長・尾高惇忠
日本資本主義の父・渋沢栄一など
維新回天の推進力となった渋沢平九郎の兄弟と
従兄弟たちが駆け抜けた幕末動乱期を描き出した青春群像歌劇



歌劇 幕臣・渋沢平九郎  2021年2月6日 深谷公演

DVD販売プロモーション映像)



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テーマ : 埼玉県
ジャンル : 地域情報

80歳の渋沢栄一に会ってきました

記事 NO.7732     彩2021 栄一の姿を再現

2021年10月8日訪問
中の家 (深谷市)

元気 80歳!
笑顔で来客を迎える

中の家 渋沢栄一のアンドロイド

和服でくつろぐ渋沢栄一

中の家 渋沢栄一のアンドロイド

表情が豊かです

中の家 渋沢栄一のアンドロイド

中の家では 栄一が帰郷したときに使っていた部屋で
栄一のアンドロイドが公開されています

中の家 渋沢栄一のアンドロイド

公開期間:2021年2月13日〜2021年12月26日

公開時間:9:30〜16:00


中の家 渋沢栄一のアンドロイド



栄一の部屋の西側にある庭には

力石(ちからいし)のような石がいくつかあります


中の家 力石


中の家 力石


大河ドラマ『青天を衝け 第6話「栄一、胸騒ぎ」』で
「力石」のエピソードが出てきました

父・市郎右衛門から
「得意先回りで まあた力石やったんか」
と問われた栄一が
「そうよ川辺村の若もん連中が誰もあげらんねぇ力石を 俺が持ち上げたんだ」
と答えるあの場面です


栄一は これらの石で体を鍛えたのでしょうか?



関連記事:渋沢栄一アンドロイド




渋沢栄一生家 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
渋沢栄一生家 中の家

埼玉県 深谷市 血洗島247-1
Qrcode渋沢栄一生家 中の家
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年10月8日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm

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青天を衝け
論語の道散歩 深谷の名所旧跡
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テーマ : 埼玉県
ジャンル : 地域情報

長瀞と渋沢栄一

記事 NO.7641     彩2021 渋沢栄一ゆかりの地

2021年6月11日訪問
長瀞(長瀞町)
長瀞さんぽ
渋沢栄一を歩く

宝登山神社

宝登山神社

宝登山神社 向拝柱

向拝柱の後ろには

宝登山神社 向拝柱 渋沢惣助

榛沢郡血洗島村渋澤惣助
の文字が刻まれている

柱を奉納したようだ


長瀞駅舎

秩父鉄道 長瀞駅前

勝地長瀞の碑 説明

昭和3年建立の勝地「長瀞」の碑があるぞ

勝地長瀞の碑

長瀞は天下の勝地
八十八翁 澁澤榮一書

長瀞は天下の勝地 自動販売機

レトロな長瀞

レトロ coffee

とろとろ歩いて 宝登山神社へ

宝登山神社 扁額

鳥居をくぐった左側には

宝登山は千古の霊場 碑

「寶登山は千古乃霊場」の碑がある

宝登山は千古の霊場 渋沢栄一

これも 澁澤榮一の書

駅前の碑とあわせて
「長瀞は天下の勝地 宝登山は千古の霊場」
となるのだ


徳不孤必有隣

長瀞駅から寶登山神社にむかって10分ほど歩いたところに
有隣倶楽部(ゆうりんくらぶ)がある
この建物は昭和3年に長瀞町上長瀞地内に建築され
その後昭和55年この場所へ移築

有隣倶楽部の名称の由来は
論語の「徳不孤必有隣」(徳は孤ならず必ず隣有り)にちなんで命名され
館内には渋沢榮一書の「徳不孤必有隣」の扁額がある
(有隣倶楽部ホームページより)



養浩亭

埼玉県立自然の博物館の前には
豊かな緑に囲まれた旅館「養浩亭」がある

渋沢栄一が大正11年に長瀞に立ち寄った際に
「浩然の気を養う」という孟子の言葉から命名した旅館だに
(養浩亭ホームページより)



長瀞駅~宝登山神社~上長瀞駅
自動販売機 有隣

埼玉県 長瀞町

撮影:2021年6月11日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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埼玉歴史散歩 長瀞を歩く
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テーマ : 埼玉県
ジャンル : 地域情報

埼玉りそな銀行のルーツ黒須銀行

記事 NO.7596     彩2021 埼玉りそな銀行のルーツ

2013年12月31日訪問
旧黒須銀行(入間市)
黒須銀行
栄一筆「道徳銀行」

旧黒須銀行

渋沢栄一と尾高惇忠が墓参の帰りに
繁田家に立ち寄ったとき
繁田武平満義は銀行設立について
栄一から教えを仰ぎました

旧黒須銀行 説明板

旧黒須銀行

     市指定有形文化財(建造物)
     指定年月日 平成二年四月一日
 この建物は、明治四二年(一九〇九)五月に黒須銀行本店として建設されたもので、土蔵造二階建、寄棟造瓦葺、総床面積二三六・〇二㎡の建物である。
 黒須銀行は、明治二七年に設立された黒須相互組合を前身に、明治三三年二月に誕生した。その経営は、創設当時の中心人物・繫田武平満義の考えから道徳を規範としたもので、大正三年(一九一四)には顧問の渋沢栄一から「道徳銀行」の名を与えられ、順調に業績を伸ばした。しかし、第一次大戦後の不況の影響により、大正十一年六月に武州銀行と合併して幕を下ろした。
 その後は昭和十八年(一九四三)七月に埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)豊岡支店となり、昭和三五年十一月まで営業が行われていた。
 昭和四十年三月からは郷土民芸館として市が借用していたが、昭和五二年七月に埼玉銀行より敷地を含めて市に寄贈された。
 現在は、当市の近代金融史を象徴する遺産として大切に保存されている。
     平成十七年三月一日
      入間市教育委員会
      入間市文化財保護審議委員会

旧黒須銀行

繁田武平翠軒によれば
満義は 尾高惇忠に漢学を学び
大川平兵衛から剣道の修行を受けたとのことです

旧黒須銀行

栄一は進んで同行の株主となり
後に顧問役を引き受け
大正2年に創立15周年を祝して
「道徳銀行」の扁額を贈りました

旧黒須銀行

一時は県下第3位の銀行に成長しましたが
大正11年に武州銀行と合併

戦時下政府の一県一行主義に従い
武州銀行 第八十五銀行 忍商業銀行 飯能銀行 の四行は
合併して 昭和18年7月1日に埼玉銀行を創立しました

旧黒須銀行
△今も残る埼玉銀行豊岡支店の文字

この建物は 昭和18年からは
埼玉銀行豊岡支店として使用されました

旧黒須銀行

栄一の揮毫した「道徳銀行」の扁額は
現在 埼玉りそな銀行本店(さいたま市)の
応接室に掲げられています

道徳銀行


旧黒須銀行

この建物は
明治期の地方銀行に多く見られた洋風土蔵造りで
貴重な近代建築遺構となっています




旧黒須銀行
旧黒須銀行

埼玉県 入間市 宮前町5-33
Qrcode旧黒須銀行
(Mapion地図にアクセス)

撮影:2013年12月31日
カメラ:ニコン-Nikon D5200


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埼玉散歩 青天を衝け 渋沢栄一を歩く
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大川道場跡と大川平兵衛頌徳碑

記事 NO.7586     彩2021 神道無念流(しんどうむねんりゅう)の稽古場

2021年3月15日訪問
大川平三郎翁記念公園 (坂戸市)

大川道場跡
神道無念流 大川平兵衛英勝の道場

大川道場跡

渋沢家や尾高家の人々が学んだ

神道無念流

大川道場跡 説明板

大川道場跡

 この公園は、神道無念流の剣術家・大川平兵衛英勝の道場があった場所です。
 平兵衛は、享和元年(一八〇一年)熊谷市上之の渡辺家に生まれ、幼い頃に、小鮒家の養子となって、栄治郎と称していました。その頃の県北地方では、神道無念流が栄えており、熊谷付近の箱田村に道場を構えていた秋山要助の弟子となり、厳しい稽古に耐えて、文政五年(一八二二年)には、二十歳で免許皆伝を得ています。
 二十二歳の時、横沼村(現坂戸市横沼)の大川与佐衛門婿養子となって、名を平兵衛と改め、邸内に道場を設けて、多くの門弟を育てています。
 文久二年(一八六二年)には、川越藩主松平大和守直克に登用され、剣術師範となって仕えました。
 後に、藩主の前橋移封に伴い、平兵衛親子も移り住みますが、藩の飛地であった松山(現東松山市)の陣屋で、剣術を指導している時、幕末を迎えています。
 明治四年(一八七一年)九月に七十歳で没すると、平兵衛を慕う門人たち「五六九名」により、隣接する大川家墓地に「頌徳碑」が建立されました。
 この碑の篆額は、前福井藩主・松平春嶽の筆であり、撰文は、尾高惇忠によるものです。
    平成二十七年二月 坂戸市教育委員会

大川道場旧景
大川道場旧景

この道場から 明治時代に活躍する人材を輩出しました

大川道場跡地

現在は 大川平三郎翁記念公園になっています

大川道場跡地

平兵衛はここから血洗島に出向き

栄一たちに剣術の指導を行いました


隣接する大川家墓地にある
頌徳碑(大川平兵衛墓碑)
大川平兵衛英勝頌徳碑

撰文は尾高惇忠

書は明治三筆の一人である日下部鳴鶴(東作)

篆額「大川先生墓表」は
元福井藩主の松平慶永(春嶽)

大川平兵衛英勝頌徳碑

裏面には門下たちの名前が刻まれています

大川平兵衛英勝頌徳碑 裏

筆頭に渋沢栄一 次に渋沢喜作

大川平兵衛英勝頌徳碑 裏 栄一と喜作

門下たちの名前が続き

最後に尾高惇忠の名が刻まれています

大川平兵衛英勝頌徳碑 裏 尾高惇忠


文化財級の碑です




大川平三郎翁記念公園(大川道場跡)
大川平三郎翁記念公園

埼玉県 坂戸市 横沼332
Qrcode大川平三郎翁記念公園
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月15日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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青天を衝け
歴史散歩 幕末明治維新 渋沢栄一を歩く
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テーマ : 史跡・神社・仏閣
ジャンル : 写真

福祉事業の原点は渋沢栄一にあった!

記事 NO.7580     彩2021 現在の福祉事業の原点

2021年3月20日訪問
東京都健康長寿医療センター (板橋区)

養育院長渋沢栄一銅像
銅像の原型は小倉右一郎が制作

旧養育院長渋沢栄一銅像

渋沢栄一は35歳の時
孤児 老人 障害者を養うための施設である
東京市養育院を設立しました

旧養育院長渋沢栄一銅像

92歳の天寿をまっとうするまで
50年以上にわたり院長を務めました

養育院本院の碑

子爵渋沢栄一像の脇には
養育院本院の碑があります

養育院本院の碑(碑文)

養育院本院の碑

 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景にはロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、養育院本院は上野(現東京芸大)、神田、本所、大塚と市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置の原資は営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信により創設された七分積金が明治新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行なったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業に関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次大戦後は、児童の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成十一年十二月、東京都議会において、養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じたが、養育院が行ってきた事業は形を変えて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺(リョウゴンジ)、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。

   平成二十五(二千十三)年三月     養育院を語り継ぐ会
   この碑は元養育院職員などの篤志によって建てられました。
   地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター


渋沢栄一の筆による 「養育院 本院」
「養育院本院」 渋沢栄一の墨蹟


銅像は大正14年(1924)に制作され
栄一本人も出席して除幕式が行われました

旧養育院長渋沢栄一銅像

旧養育院長渋沢栄一銅像 説明板

旧養育院長渋沢栄一銅像

 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を越えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も務めた彫刻家・小倉右一郎の制作で、高さ16 尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で作られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないまま昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至っています。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。昭和26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
  平成26年12月  板橋区教育委員会



養育院中央記念広場には
乙女のブロンズ像「よろこび」があります

裸乙女像 よろこび 小金丸幾久

元は噴水のある池の中にあったようです

養育院中央記念広場と「よろこび」 説明板

養育院中央記念広場と「よろこび」

 この広場は、養育院初代院長、渋沢英一翁の業績を記念し、あわせて院内のおとしよりや、地域並びに広く都民の方々の"いこい"と"ふれあい"の場として設けられたものです。
 池の中にあるブロンズ像「よろこび」は、昭和五十七年度東京都「文化のデザイン」事業の一環として、この広場にふさわしい、やすらぎとうるおいを与える目的で制作されたものです。
 「よろこび」の制作は、小金丸幾久氏の手になるもので、清純な乙女の姿は、あふれでる噴水とあいまって、春の息吹と健康でやすらかな生活への願いを表現しています。
 この「よろこび」が、初代院長像とともに広場のシンボルとして、多くの方々に親しまれることを願うものです。
   昭和五十八年三月



養育院は時代の求めに応えて
医療・福祉事業を展開しました

精神病・ハンセン病・結核・児童福祉・高齢者福祉対策などの
さまざまな専門施設が養育院から生まれました

その歴史は 日本の近代医療・福祉の
源流といってもよいでしょう



養育院は現在
高齢者のための医療や研究を行う
東京都健康長寿医療センターとなっています



東京都健康長寿医療センター
東京都健康長寿医療センター

東京都 板橋区 栄町35-2
Qrcode東京都健康長寿医療センター
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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歴史散歩 幕末明治維新 渋沢栄一を歩く
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

渋沢栄一の力石

記事 NO.7578     彩2021 栄一の力石をみてきました

2021年3月24日訪問
埼玉県立歴史と民俗の博物館 (さいたま市)

渋沢栄一のまなざし
埼玉県150周年・開館50周年記念

埼玉県立歴史と民俗の博物館

県立歴史と民俗の博物館では
令和3年3月23日(火曜日)からNHK大河ドラマ特別展
「青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~」を
NHKさいたま放送局と共催で開催しています

青天を衝け 渋沢チラシ

実業家としての顔のみならず
福祉・医療・教育・平和外交など
社会事業家としての姿を大きくとりあげています

青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~


今 最も注目を集めている世界の偉人です

青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~

3月21日放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では
栄一が力石を持ち上げるシーンがありました


埼玉県立歴史と民俗博物館で開催されている
NHK大河ドラマ特別展「青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~」には
栄一が軽々と持ち上げたという逸話のある力石が
初公開されました

(撮影禁止のため へたくそな絵でごめんなさい)
力石の絵

栄一の力石

若き栄一が藍の行商先である信州の紺屋を訪れた際に、染料とするため藍を敲く石を軽々と持ち上げたという逸話が同家に伝わり、以来「渋沢栄一の力石」と呼ばれている。 
重量103Kg。初公開。

その他 約200点の資料が展示されています


唯一写真撮影が可能だった
埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵の渋沢栄一胸像

05DSC_9232.jpg

06DSC_9233.jpg

栄一の胸像

17 小倉右一郎作「渋沢栄一像」
   大正6年(1917)  当館 蔵
70代の栄一を表した胸像。小倉右一郎は、東京美術学校彫刻科卒の彫刻家で、関東大震災後、埼玉県(旧大宮市)に移住して活動した。大正14年(1925)に養育院への功績として建てられた渋沢栄一像(現在は東京都健康長寿医療センターに設置されている)の原型も小倉が制作した。


渋沢栄一は福祉・医療・教育・平和外交にも
大きな力を発揮したことがよく分かる展示でした

特別展は5月16日(日)まで開催しています
この機会に訪れてみるのもいいですね




埼玉県立歴史と民俗の博物館
埼玉県立歴史と民俗博物館

埼玉県 さいたま市 大宮区 高鼻町4-219
Qrcode埼玉県立歴史と民俗の博物館
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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博物館めぐり さいたま市の博物館
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

栄一と喜作

記事 NO.7556   彩2021 Shibusawa Eiichi & Shibusawa Kisaku


渋沢栄一と渋沢喜作
生涯にわたって友情を貫きました

渋沢栄一と渋沢喜作


渋沢栄一 しぶさわ・えいいち(1840-1931)
天保11年に武蔵国榛沢郡血洗島に生まれました。
父・市郎右衛門(元助)、母・えいの長男として生まれました。
幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父から学問の手ほどきを受けました。7歳になるといとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
二十代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋慶喜に仕官することになりました。
一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、徳川昭武に随行し、欧州諸国の実情に触れることができました。
明治維新となって帰国すると日本で最初の合本組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。
退官後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立に関わりました。
また、社会事業や教育、福祉、民間外交への尽力も、栄一の特筆すべき業績です。関係した機関や団体、事業は600以上とされ、東京市養育院、東京慈恵医院、財団法人聖路加国際病院、日本結核予防協会や、東京商法講習所(現一橋大学)、日本女子大学校(現日本女子大学)などにその足跡を残しています。


渋沢喜作 しぶさわ・きさく(1838-1912)
天保9年に武蔵国榛沢郡血洗島に生まれました。
父は「東の家」二代目宗助の次男 文左衛門で、その弟は 栄一の父 元助です。
栄一とはいとこにあたり、少年時代は栄一と尾高惇忠のもとで学問を習い、高崎城乗っ取りを断念し、京都へ逃げ一橋家へ仕官するなど、すべて二人は行動を共にしました。
慶喜が将軍となったため、幕臣となり「彰義隊」の頭取等で活躍し、「振武軍(しんぶぐん)」を結成して官軍と戦い飯能戦争で敗れてからは、榎本武揚の軍に参加し五稜郭に立てこもりました。
榎本が降伏し、官軍に捕えられ三年間に及ぶ牢獄生活を送りました。その後は、栄一の推薦で大蔵省に出仕し、辞職後は実業家としての道を歩みます。何度も事業に失敗し、そのたびに栄一の温情によって苦境を切り抜けるなど、栄一と喜作は生涯にわたって友情を貫きました。





碑の裏
「栄一」の隣に「喜作」の名が刻まれています
珍しいかも?
渋沢栄一と渋沢喜作




いつも一緒
渋沢栄一と渋沢喜作
渋沢栄一と渋沢喜作


撮影:2021年3月15日(埼玉県)
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

埼玉散歩 青天を衝け 渋沢栄一を歩く

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テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

常盤橋公園 青淵澁澤榮一像

記事 NO.7550   彩2021 平和の象徴ハトがやってくる銅像

2021年2月20日訪問
青淵澁澤榮一像 (東京都千代田区)

常盤橋公園 渋沢栄一の銅像
大手町のビジネス街を見守る

青淵澁澤榮一像

台座前面の題字「青淵澁澤榮一」は
渋沢栄一 本人の筆蹟です

青淵澁澤榮一像

日本橋川沿いにある常盤橋公園は
江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところです

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会
現在の渋沢栄一記念財団によって
復旧整備が行われ公園となりました

青淵澁澤榮一像

戦争による金属回収で一度は撤去されましたが
昭和30年に再建されました

青淵澁澤榮一像 説明銘板
青淵澁澤榮一翁は 天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり 後轉じて幕臣となって 慶應三年歐州に赴き 民主主義自由主義を知る機會を得た 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが 明治六年退官し 同年創立された第一國立銀行の頭取となり 爾来産業経濟の指導育成に任じ開與した會社五百 常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實踐し我が國運の發展に偉大な貢獻をした
また 東京市養育院等社會事業の助成 一橋大學日本女子大學等實業及び女子教育の育成 協調會等による勞資の協調 日華日米親善等世界平和の促進 道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し 昭和六年十一月十一日に逝去した
翁の歿後 財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が 昭和八年此処に銅像を建立したが 第二次世界大戦中金属供出のために撤去された
然るにこのたび 銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって 再び朝倉丈夫氏に製作を依嘱し舊位置にこの銅像を建て 東京都に寄附したのである
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社


お江戸日本橋散歩
OEDO NIHOMBASHI WALK




関連記事

青淵広場の栄一翁銅像
(深谷市 深谷駅北口広場)


澁澤榮一翁立像
(深谷市 渋沢栄一記念館)


若き日の栄一
(深谷市 中の家)




常盤橋公園 青淵澁澤榮一像
青淵澁澤榮一像

東京都 千代田区 大手町2-7-2
Qrcode渋沢栄一像(常盤橋)
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年2月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅
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Author:へいへい

開​設日​: ​20​06​/3​/2​5(​土)​

ヤフーブログから引っ越してきました。(2019/3/7)


四季折々美しい彩の国。見沼田んぼの自然や、埼玉県内及び周辺の観光地・穴場スポット・力石を紹介します。


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