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住宅街の一角に幸田露伴居宅跡

記事 NO.7574     彩2021 露伴と栄一

2021年3月23日訪問
幸田露伴居宅跡(台東区)

幸田露伴居宅跡
「五重塔」執筆の地

幸田露伴居宅跡

天王寺五重塔は
露伴の家からすぐのところにありました

幸田露伴居宅跡 説明板


幸田露伴居宅跡

 幸田露伴は、明治二十四年一月からほぼ二年間、この地(当時の下谷谷中天王寺二十一番地)に住んでいた。
 ここから墓地に沿った銀杏横丁を歩き、左を曲がると天王寺五重塔があった。五重塔は寛永二十一年(一六四四年)に感応寺(天王寺の前身)の五重塔として創建され、、明和九年(一七七二年)二月に焼失、寛政 三年(一七九一年)棟梁八田清兵衛らにより再建された。
 露伴は当地の居宅より日々五重塔をながめ、明治二十四年十一月には清兵衛をモデルとした名作『五重塔』を発表した。
 同二十六年一月、京橋区円山町(現、中央区)へ転居したが、現在も傍らに植わるサンゴジュ(珊瑚樹)は、露伴が居住していた頃からあったという。
 露伴は、慶応三年(一八六七年)七月、下谷三枚橋横町(現、上野四丁目)に生まれ、すぐれた文学作品や研究成果を多数発表するなど、日本文学史上に大きな足跡を残した。昭和二十二年七月没、墓所は大田区池上本門寺にある。
    平成十四年三月   台東区教育委員会


幸田露伴居宅跡 サンゴジュ

△露伴が居住していた頃からあったいう
サンゴジュ

日暮しの里散歩道 幸田露伴旧居跡

史跡の多い日暮しの里です


また 露伴は渋沢栄一の伝記
「渋沢栄一伝」を執筆しています

旧渋沢邸「中の家」

深谷市にある旧渋沢邸「中の家」の門
左側の石柱に刻まれた

青淵翁誕生之地 幸田露伴

「青淵翁生誕之地」も
幸田露伴の書です
(昭和15年建立)

この石柱は 血洗島青淵会が
昭和15年 栄一の生誕百年祭の時に
建てたものです






幸田露伴居宅跡
幸田露伴居宅跡

東京都 台東区 谷中7-18-25
Qrcode幸田露伴居宅跡
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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東京散歩 谷中周辺の名所旧跡
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テーマ : 史跡・神社・仏閣
ジャンル : 写真

谷中霊園桜通りと天王寺五重塔跡

記事 NO.7572     彩2021 谷中で花散歩歴史散歩

2021年3月23日訪問
谷中霊園さくら通り(台東区)

桜通り
墓地の桜並木

61DSC_8952.jpg

上野の桜めぐりもそろそろ終わりにしたいと思います

上野戦争で敗れた彰義隊も
この桜通りを走って道灌山方面に
逃げたと思われます

62DSC_8953.jpg

墓地の片隅に
「おかの はかみち」と
刻まれた石標があります

谷中の墓地が整備されたときのものでしょうか?
「桜通り」を「丘の墓道」とよんでいたようです

その桜通りにある
五重塔跡の桜も見事です

63DSC_8963.jpg

以前は ここに美しい五重塔があったのです

64DSC_8959.jpg

東京都指定史跡
天王寺五重塔跡

 谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長耀山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、百三十年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一丈ニ尺八寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月9日放火により焼失した。 現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方ニ尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治3年(1870)の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。
     平成5年(1993)3月31日建設  東京都教育委員会


65DSC_8961.jpg

幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった
天王寺の五重塔跡です

66DSC_8955.jpg

天王寺(旧名・感応寺)の五重塔は
江戸時代の正保元年(1644)に創建されたと伝えられています
明和9年(1772)の大火で寺の諸堂とともに焼失しましたが
寛政3年(1791)に再建されました

67DSC_8957.jpg

谷中のランドマークになっていましたが
昭和32年7月6日の放火により消失しました

NHKアーカイブス
谷中の五重塔焼ける

68DSC_8964.jpg

この近くには
徳川慶喜公や渋沢栄一翁などの
墓地もあります

そうそう 彰義隊の初代頭取は
渋沢喜作でしたね



天王寺五重塔跡
69DSC_8960.jpg




撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
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彰義隊の墓

記事 NO.7571     彩2021 満開の桜に包まれて

2021年3月23日訪問
上野公園(台東区)

戦死の墓
彰義隊が散った上野戦争

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一茶の句
「散る花は 鬼の目にさへ 泪哉」

52DSC_9031.jpg


彰義隊の墓(台東区有形文化財)

 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
 平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
        平成八年三月    台東区教育委員会

彰義隊の墓
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△「戦死之墓」の墓碑銘は
旧幕臣・山岡鉄舟の筆によるもの
彰義隊は明治政府にとって逆賊であり
その名を顕すことがはばかられた

▽墓石の前の小さな板碑は
明治2年 寛永寺子院の
寒松院住職 多田孝泉と
護国院住職 清水谷慶順が
密かに付近の地中に埋納したもの

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彰義隊戦死之墓
慶應戊辰五月十五日 発願回向主沙門松国
(松国は寒院と護院の隠し言葉)


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逆賊とみなされた彼らの墓を建立することが許されたのは
明治7年になってからでした

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彰義隊の墓

 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同士をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」 と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。

彰義隊奮戦之図
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小川興郷が画家に指示して描かせたもので
他に存在する錦絵と違って
史実に忠実な絵と伝えられているようです


彰義(篆額 公爵徳川家達)
58DSC_9027.jpg

「彰義隊墓表之来由」の碑


彰義隊の墓は 西郷隆盛像の裏手に
隠れるようにひっそりと立っています


上野山王台
59DSC_9035.jpg

東京都 台東区 上野公園1番
Qrcode彰義隊墓所 山王台
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
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経王寺の山門

記事 NO.7570     彩2021 本行寺の隣の経王寺

2021年3月23日訪問
大黒山 経王寺(荒川区)

経王寺の山門
丸い穴が伝える上野戦争

大黒山 経王寺

境内の大黒堂には

日蓮聖人作と伝わる大黒天が祀られています

経王寺山門 標柱


荒川区指定文化財 経王寺山門 付門番所

 天保七年(一八三六)に、桶屋安五郎らが願主となり建立された。切妻造、桟瓦葺、総欅造の薬医門で、脇に瓦屋根付きの板塀と潜り戸を設け、西側には門番所が連結される。間口寸法(親柱間)一〇尺九寸、奥行寸法(親柱・控柱間)七尺六寸と、堂々とした規模をもち、脇に付設された門番所と併せて日暮里の寺町地区を象徴する「辻」の景観を形成する貴重な建造物である。また、慶応四年(一八六八)の上野戦争の際のものと伝えられる弾痕が残っており、地域の歩んだ歴史も刻まれている。


経王寺山門


経王寺山門 説明板


大黒天(だいこくてん)経王寺(きょうおうじ)

 経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(一六五五)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。
慶応四年(一八六八)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
         荒川区教育委員会


経王寺山門 銃弾痕

慶応4年(1868)5月15日の

上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため

新政府の攻撃を受けました

経王寺山門 銃弾痕


経王寺山門 銃弾痕


経王寺山門 銃弾痕


経王寺山門 銃弾痕

山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り

当時の激しさを今に伝えています

経王寺山門 銃弾痕

上野 谷中 根津 千駄木は戦場でした

経王寺山門

上野戦争は 戊辰戦争の戦闘の一つで
彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩 長州藩を中心とする
新政府軍の間で行われた戦いです




大黒山 経王寺
経王寺山門

東京都 荒川区 西日暮里3-2-6
Qrcode経王院
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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本行寺の桜と碑

記事 NO.7569     彩2021 観月の地 月見寺

2021年3月23日訪問
長久山 本行寺(荒川区)

月見寺のしだれ桜と碑
太田道灌の孫太田資高の開基

本行寺 枝垂れ桜

都会の空にしだれ桜が映えます

俳人 小林一茶の常宿と知られた
月見寺本行寺です

本行寺 一茶の句碑

一茶の句碑
「陽炎や 道灌どのの 物見塚」


本行寺 山頭火の句碑

山頭火の句碑
「ほっと 月がある 東京に来てゐる」

山頭火の句碑は東京ではここにしかない
とても貴重なものです

本行寺 猫供養塔 観乗寺 大正14年

記事 NO.7567 の石像の猫は
本行寺にいます

本行寺 猫供養塔 観乗寺 大正14年

供養塔の上に
座布団を敷いて座っています

猫の供養塔でしょうか?

本行寺 猫供養塔 観乗寺 大正14年

裏には
大正十四年六月二十八・・・
観乗寺 三・・・と刻まれています
謎の供養塔です


本行寺

本行寺には都旧跡の墓もあるようです





長久山 本行寺
本行寺 山門

東京都 荒川区 西日暮里3-1-3
Qrcode本行寺
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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御殿坂(ごてんざか)

記事 NO.7568     彩2021 御殿坂について

2021年3月23日訪問
御殿坂(荒川区・台東区)

御殿坂の桜並木
JR日暮里駅の北口

11DSC_8872.jpg

この桜並木の坂の下った橋のたもとに
日暮里駅の北口があります

写真左側が本行寺になります

鉄道が敷かれる以前は 橋は無く
今の線路のあるところまで急な坂が続いていました

12DSC_8869.jpg

1枚目の写真が台東区から見た御殿坂です
2枚目の写真は荒川区から見た御殿坂です

台東区谷中7丁目と荒川区西日暮里3丁目の間にある坂です

13DSC_8867.jpg
荒川区の説明板

御殿坂(ごてんざか)

 西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。 江戸時代から用いられていた呼称である。
 当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。
 天保九年(一八三八)刊の「妙めを奇談」は、寛永(一六二四~四四)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。
          荒川区教育委員会



▽写真:塀の奥に本行寺のしだれ桜が見えます
14DSC_8876.jpg
台東区の標柱

御殿坂

文政十二年(一八二九)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年『東京府志料』には、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。
平成十四年三月  台東区教育委員会




天王寺2
-国立国会図書館ウェブサイトより-

絵地図から本行寺を探してみてください
本行寺の隣には経王院(現経王寺)があります

経王院から川に突き当たるまで伸びている道が
江戸時代の御殿坂と考えられます

谷中霊園は以前は広大な天王寺の境内で
五重塔があったこともわかります






御殿坂
DSC_8871_20210328022205a3f.jpg


撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

猫国 日暮里駅

記事 NO.7567     彩2021 猫桜

2021年3月23日訪問
日暮里駅(台東区)

桜と猫と日暮里駅
天王寺公園から日暮里駅へ

日暮里駅 桜

桜の長いトンネルを抜けると日暮里駅であった

日暮里駅

駅の名が猫になった

日暮里駅 ネコ

キャ~っと

日暮里駅 猫

にゃんと ニャッポリ駅にゃ~

本行寺 猫供養塔 観乗寺 大正14年

桜満開の猫の街です






日暮里駅北口
日暮里駅


撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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テーマ : つぶやき
ジャンル : 小説・文学

幡随院長兵衛の墓所を訪ねて

記事 NO.7560   彩2021 日本の侠客の元祖

2021年3月20日訪問
源空寺(台東区)

幡随院長兵衛の墓
江戸初期の町奴

01DSC_8671.jpg

幡随院長兵衛は
徳川幕府が開かれてまもない江戸で町奴(侠客)として名を成しました
男の意地と面目を通した死に際の潔さで江戸の華と謳われ
歌舞伎や講談の題材に取り上げられて
現在でも広く知られています

02DSC_8668.jpg


幡随院長兵衛墓(都指定旧跡)
台東区東上野六丁目十八番 源空寺墓地

 江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。備前唐津の士族で、幡随院の住職向導に私淑(一説には向導の実弟、または幡随院の門守の子ともいう)し、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれる。
 当時町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭領となり、旗本奴の頭領水野十郎左衛門と張り合ったという。この辺は多くの伝説と潤色で構成の人々にもてはやされているため、つまびらかにはできない。
 慶安三年(1650)四月十三日、水野十郎左衛門のだまし討ちにあって没した。年三十六。
 昭和二年四月、東京都旧跡に指定された。
     平成十三年三月     台東区教育委員会



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東京都台東区東上野の源空寺に墓があります

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幡随院長兵衛夫妻の墓

左側が長兵衛の墓

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幡随意長兵衛埜墳墓
06DSC_8726cotr.jpg

歴史小説
平井晩村 著 「幡随院長兵衛」(大正8年出版)には
江戸に出るきっかけとなった
「西山裏の力石」の力比べの様子が
数ページにわたり描かれています

07DSC_8699.jpg

国立国会図書館ウェブサイトで
閲覧できます
↓  ↓
歴史小説文庫
タイトル 幡随院長兵衛
著者 平井晩村 著
出版者 国民書院
出版年月日 大正8年

どこまでが史実で
どこまでが創作か分かりませんが
楽しめると思います



源空寺
08DSC_8662.jpg

埼玉県 台東区 東上野6-19-2
Qrcode浄土宗 源空寺
(Mapion地図にアクセス)



撮影:2021年3月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

台東区散歩 歴史散歩 お江戸を歩く

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

八つ見のはし 一石橋

記事 NO.7553   彩2021 江戸時代を歩く

2021年2月20日訪問
一石橋(東京都中央区)

名所江戸百景「八ツ見のはし」
Remains of Ichikoku-hashi Bridge

歌川広重 名所江戸百景八つ見のはし
-銭瓶橋跡説明板より-

歌川広重
「名所江戸百景八つ見のはし」
一石橋から銭瓶橋を描いたものです

銭瓶橋の先には道三橋や江戸城が確認できます
高い場所から描いているようです

ということは一石橋は高さがある橋だったのでしょうか?
現在の一石橋は日本橋川に架かる橋では最も低い橋です

広重が描いた頃の一石橋を
著作権の切れているものから探してみました

ありました 日本橋から描いた一石橋です
こちらです▼

日本橋より一石橋を見る図ho
日本橋より一石橋を見る圖  國直 画
-国立国会図書館ウェブサイトより-

高さのある立派な橋です
橋の上からの眺めは最高でしょう

後方には銭瓶橋が描かれています
確認できますか?

八つの橋
一石橋 日本橋 江戸橋 常磐橋 呉服橋 鍛冶橋 銭瓶橋 道三橋
が見渡せたことから「八ツ見のはし」と呼ばれていました

日本橋北絵図
日本橋北神田浜町絵図(部分)
-国立国会図書館ウェブサイトより-


一石橋南西橋詰には
「一石橋迷子しらせ石標」があります

一石橋 南西詰

江戸時代の日本橋から一石橋あたりは盛り場で
迷子や尋ね人が多かったようです

いちこくはし 一石橋迷子しらせ石標

当時迷子は町内が責任を持つことになっており
安政4年(1857)近隣の町名主等が世話人となり
一石橋に迷子探しの告知石碑が建立されました

一石橋迷子しらせ石標 正面
正面 「満(ま)よひ子の志(し)るべ」

「不」に似ている
几号(きごう)が刻まれています

迷子しらせ石標 右面
右側 「志(し)らす類(る)方」


一石橋迷子しらせ石標 左面
左側 「たづぬる方」

両側の上部に方形の窪みがあり
左側の窪くぼみに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り
心当たりがある人はその旨を書いて右側の窪くぼみに貼りました
いわば江戸庶民の告知板でした

一石橋迷子しらせ石標 説明板

一石橋迷子しらせ石標

東京都指定有形文化財(歴史資料)
     所在地 中央区八重洲11-1
     指 定 大正一三年二月五日 府仮指定
 江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政四年(一八五七)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。
 碑文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、と彫り、左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を欠いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。
 総高一七五・七cm(棹石一六三cm、台石一二・七cm)、棹石正面幅三六cm、同奥行二六cm、台石正面幅七〇cm、同奥行六八・五cm。作者などは不詳である。
  平成二十三年三月 建設     東京都教育委員会


一石橋 橋詰


一石橋の親柱 説明板

一石橋の親柱

中央区民文化財
    所在地 八重洲一町目十一番先
 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
 木橋としては最後となった明治六年(一八七三)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(一九二二)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
 平成十五年三月     中央区教育委員会


いちこくはし 北東詰

一石橋の北に金座支配 後藤庄三郎
南に呉服町頭取 後藤縫殿助の屋敷があり
後藤(五斗)を二つ足して一石橋の名が付いたといわれています

一石橋の歴史

一石橋の歴史

一石橋は寛永年間(一六二四~一六四七)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
一石橋の上流半分は、四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。



一石橋周辺は歴史上の見どころが多く存在しています


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一石橋
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東京都 中央区 日本橋
Qrcode一石橋
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撮影:2021年2月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

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