fc2ブログ

訪問者数:   現在の閲覧者数:

呼出先祖代々之墓 (回向院)

記事 NO.7778    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

呼出先祖代々之墓
太鼓塚

深川回向院 呼出先祖代々之墓

呼出し連

呼出(よびだし)とは大相撲での取組の際に
力士を呼び上げる「呼び上げ」や土俵整備から太鼓叩きなど
競技の進行を行う者(ウィキペディア)

深川回向院 呼出先祖代々之墓


棹石
深川回向院 呼出先祖代々之墓
呼出し組合
昭和丗四年九月之建


副碑背面
深川回向院 呼出先祖代々之墓

昭和五十八年五月建之
    呼出し会一同

太鼓塚
大正二年十月時の言上呼出し長谷川勘太郎提唱により呼出し代々の霊位をまつるべく之れを建つ
以来呼出し会全員が毎年五月場所後回向院にて法要を行なつている
通称を太鼓塚と言う
 昭和五十八年五月施工





両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
    にほんブログ村 写真ブログへ
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

回向院の木遣塚(東京都墨田区)

記事 NO.7776    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

木遣塚(きやりづか)
火消 第六区五番組

深川回向院 木遣塚 第六区五番組

回向院境内にある木遣塚です
入口に「第六区五番組」と刻まれています

深川回向院 木遣塚

木遣塚の両脇には 力石が鎮座しています

木遣塚 向かって左の力石
深川回向院 木遣塚 左力石
奉納 七拾貫目余
外神田旅籠町 弥七
本小田原町 清蔵


木遣塚 向かって右の力石
深川回向院 木遣塚 右力石
奉納 六拾五貫余
本小田原町 清蔵 仁助


深川回向院 木遣塚のもんけん

△赤丸で囲んだ
鉄製の銅鐸のようなものは「もんけん」で
杭を打ち込むために上下させる鋼鉄製の重りです

深川回向院 木遣塚 もんけん

もんけんは力石の代用として使うこともあります
(参考:綾瀬昔ばなし「昔話16・こんなにあるある「さし石」の持ち上げ方」)


深川回向院 木遣塚

回向院で力石を探しましたが
ここにある二つだけで 他に見つけることはできませんでした





両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
にほんブログ村 写真ブログへ   

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

回向院 鳥居清長慰霊碑(東京都墨田区)

記事 NO.7775    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

ご存じですか鳥居清長
回向院の慰霊碑

宮武外骨著「山東京伝」 番付 鳥居清長
(国立国会図書館ウェブサイトより) 丸印は加工

またまた例の番付から失礼します

中央の黄色の丸印は
美人画で世界的に高く評価されている 鳥居清長です

鳥居清長は 鳥居派四代目当主 鳥居派の代表的な絵師でした
天明期を中心に活躍し 写楽・北斎・広重と並び
六大浮世絵師の一人とされています

両国回向院 鳥居清長慰霊碑

墓石は地震や戦災など度重なる災禍で失われ
長らく過去帳のみ残っている状態だったのですが

清長の偉業を永く顕彰していこうと
平成25年(2013)4月慰霊碑「清長碑」が建立されました

台座には小林忠による碑文が刻まれています

両国回向院 鳥居清長慰霊碑 碑文
鳥居

日本橋に生まれた鳥居清長は 気風の良い生粋の江戸っ子でした 天明のヴィーナスとうたわれる美人画とともに 鳥居派四代目を継いで 歌舞伎絵の分野でも活躍しました
その清長は文化十二年(一八一五)五月二十一日に数え年六十四歳で没し 両国の回向院に葬られました その後の度重なる災害によって失われた墓碑が 歿後二百年を間近に迎えて ここ菩提寺の境内に再建されることとなりました
この記念碑によって浮世絵の歴史に 輝かしい足跡を残した鳥居清長の偉業が 永く顕彰されることを願ってやみません
  小林忠



両国回向院 鳥居清長慰霊碑
長林英樹信士
文化十二年五月二十一日 □


石碑正面には
団扇を持つ女性のブロンズプレートが取り付けられています

両国回向院 鳥居清長慰霊碑 ブロンズプレート

このプレートは「大川端の夕涼」を参考に作成されました

「大川端の夕涼」は ボストン美術館のホームページでご覧になれます
クリック→Museum of Fine Arts Boston



両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
    にほんブログ村 写真ブログへ
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

ねずみとねこ

記事 NO.7774    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

猫塚
鼠の隣の猫

鼠小僧の墓と猫塚

鼠小僧の墓の横には猫塚があります

両国回向院 猫の恩返し(猫塚)

実在した猫の墓で
ガラスケースに収められています

両国回向院 猫の恩返し(猫塚)説明板
両国物語
Tomb of the faithful cat
猫の恩返し(猫塚) [30]

 猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。
 ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。
 それを知った魚屋は、商家の主人 に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。
 江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違つています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。


両国回向院 猫塚
木下伊之助

両国回向院 猫塚 細川

施主名が「細川」と彫られています

両国回向院 鼠小僧の墓左側 細川仁三

鼠小僧の墓石左側に彫られた「細川仁三」と関係があるのでしょうか?



両国回向院 猫

回向院は まさに動物供養の先駆けの寺院です

両国回向院 犬猫供養塔

江戸時代末期の浮世絵師 歌川国芳は
無類の猫好きとしても知られ
常に数匹 時に十数匹の猫を飼い懐に猫を抱いて
作画していたと伝えられています(Wikipedia)

▽番付 画の方 青丸「歌川国芳」
山東京伝 京山 歌川国芳 宮武外骨 番付
(国立国会図書館ウェブサイトより) 丸印は加工

内弟子の芳宗によると 亡くなった猫はすぐに回向院に葬られ
家には猫の仏壇があり 死んだ猫の戒名が書いた位牌が飾られ
猫の過去帳まであったといいます(Wikipedia)

朧月猫草紙 山東京山著 歌川国芳画
(国立国会図書館ウェブサイトより)

△猫を擬人化した作品 山東京山著 歌川国芳画 
『朧月猫草帋(おぼろづきねこのそうし)』 の口絵




両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
    にほんブログ村 写真ブログへ
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

橘千蔭 岩瀬京伝・京山の墓(回向院)/東京都墨田区

記事 NO.7773    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

橘千蔭 岩瀬京伝・京山の墓
鼠小僧次郎吉の墓の裏

両国回向院 加藤千蔭墓

鼠小僧次郎吉の墓の裏側に
草書体の美しい文字で「橘千蔭墓」と陽刻されているのが
歌人・国学者の加藤千蔭のものです

墓碑の「橘千蔭」の文字は本人のものといわれています
文化5年の正月に「橘千蔭」と自筆した紙を
両国の回向院の住持に託しその年の9月2日に没しました

両国回向院 加藤千蔭墓 説明板

加藤千蔭墓

 江戸中期の国学者、歌人。芳宜園と号し、千蔭は名。耳梨山人、逸楽窩、江翁などども号していた。通称加藤又左衛門といい、能因法師の末裔だどいう。父は江戸の与カとして八丁堀に住み、千蔭は父から歌を学んだ。また賀茂真淵に師事し、のち父の職を継いだ。天明八年(一七八八)病気のため職を辞し、学問研究に専念した。老境に人っていよいよ研さんを積み、著書は世に千蔭本ど呼ばれて流布した。博識をもって世に知られ、かつ著書「万葉解」は高く評価されて幕府から賞されたという。また、絵を建部綾足に学び人びどは争ってこれを求めたという。文化五年(一八〇八)九月ニ日歿。年七十五。著書には「万葉集略解」「万葉新採百首」「香取日記」その他多い。
  昭和六十二年三月二十日建設   東京都教育委員会

両国回向院 加藤千蔭墓


加藤千蔭の墓碑の前には
山東京伝と山東京山の墓碑がならんでいます

両国回向院 岩瀬京伝墓 岩瀬京山墓

△左が兄の山東京伝 中央が弟の山東京山

山東京伝の墓碑
両国回向院 岩瀬京伝墓

岩瀬醒墓
文化13年(1816)に56歳でなくなりました

両国回向院 岩瀬京伝墓 説明板

岩瀬京伝墓

 江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の名で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家としての地歩を築いたが寛政三年(一七九一)風俗を乱すものとして手鎖五十日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。著書には「仕懸文庫」「孔子縞于時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化十三年(一八一六)九月七日歿。年五十七。
  昭和六十二年三月二十日建設 東京都教育委員会

岩瀬醒墓の側面
両国回向院 岩瀬京伝墓 側面

兄の墓は京山が撰文し 墓碑銘も自撰自書しました

両国回向院 岩瀬京伝墓 岩瀬京山墓

兄の墓 向かって右側が弟の京山のものです

岩瀬京山の墓碑
両国回向院 岩瀬京山墓

岩瀬百樹之墓
安政5年(1858)に90歳でなくなりました

両国回向院 岩瀬京山墓 説明板

岩瀬京山墓

 江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して、兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して凉仙と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政五年(一八五八)九月二十四日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。
 なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。方半居士、覧山の別号がある。
  昭和六十二年三月二十日建設 東京都教育委員会


鼠小僧の墓の後ろには

両国回向院 岩瀬京伝墓 岩瀬京山墓
山東京伝 山東京山
兄弟の墓が並んで建っています


兄弟そろって名前のある番付表があったので載せておきます
作の方 大関 山東京伝 前頭 山東京山

山東京伝 宮武外骨著 番付
(国立国会図書館ウェブサイトより) 赤丸印加工




両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
にほんブログ村 写真ブログへ   

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

鼠小僧の墓(両国回向院)

記事 NO.7772    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

鼠小僧次郎吉之墓
盗んだ総額は3412両(約1億4000万円)

両国回向院 鼠小僧の墓

市川団升が狂言の大ヒットのお礼に
明治9年(1876)に供養墓として建てたものです

両国回向院 鼠小僧の墓

鼠小僧は大名屋敷と大金持ち専門の盗人で
盗んだ金は すべて博打に消えてしまいました

両国回向院 鼠小僧の墓

鼠小僧供養墓
「墨田区民俗文化財指定」(平成十四年五月二十九日)

 ※墓石の高さ    一〇〇センチ 幅七一〇センチ 奥行き 五五センチ
 ※台石の高さ     三五センチ 幅一一六センチ 奥行き 七八センチ
 ※石組みの墓壇の高さ 六五センチ 幅一五〇センチ 奥行き一三〇センチ を測る(安山岩製)

碑の正面には「天保二年八月十八日」「俗名 中村次良吉之墓」
「教覚速善居士」「道一書」
 裏面には「大正十五年十二月十五日 建立」
 左側には「永代法養料金 金五拾圓也 細川 仁三」と刻まれている

鼠小僧は寛政九年(一七九七年)生まれの盗賊であり「武江年表」によると 天保三年(一八三二)八月十九日に浅草で処刑されている
「甲子夜話」によれば 武家屋敷にのみ押し入ったため 庶民からは義賊扱いされていると記されている
後に幕末の戯作者 河竹 黙阿弥が 権力者である大名家に自在に侵入し非権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき 演劇界においては 現在まで続く当り狂言の一つとなった
明治十二年一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である 市川 団升が 狂言が当った礼として碑と永代供養料十円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており 施主として刻まれ 墓の横にも石灯籠を寄進している
細川 仁三とは市川 団升のことであるとみる説もある。
文学界においても 芥川 龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており 虚構の鼠小僧の人気は高い
江戸時代 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた しかし歌舞伎や狂言での成功によって 祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる
※他方 供養碑の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と刻まれているが別名「欠き石」とも呼ばれるものである
鼠小僧の墓石を欠き 財布や袂に入れておけば 金回りが良くなる あるいは持病が治るとも言われ 成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け 現在までに数百基にも及んでいるという 発生時期は不明であるが 明治十八年(一八八五年)に初演された 河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中で この信仰のことが触れられている
「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり そこには また庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」 (墨田区史より)

両国回向院 鼠小僧の墓
教覚速善居士
天保二年八月十八日
俗名 中村次良吉之墓
道一書

両国回向院 鼠小僧の墓

墓石を削って持っていると
入試に運が強い(どこでもするりと入る)というので
墓は削られて小さくなるたびに 何度もつくりかえられました

現在は 墓の前に削って持ち帰ってもよい石が用意されています

「鼠小僧之墓 こちらの『お前立ち』をお削り下さい」




両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
にほんブログ村 写真ブログへ   

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

相撲関係石碑群〈力塚〉 /両国回向院

記事 NO.7771    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

力塚の石碑
相撲と回向院

両国回向院 力塚碑

石碑群の中では一番大きな石碑
「力塚」は徳川家達の揮毫です

両国回向院 力塚碑 相撲関係石碑群

歴代年寄を慰霊するために建てられました

相撲関係石碑群〈力塚〉 説明板

相撲関係石碑群〈力塚〉
所在 墨田区両国二丁目八番 回向院

 墨田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
 天保四年(一八三三)一○月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(一八八四)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして明治四二年に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
 力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
 現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
  平成一一年三月  墨田区教育委員会

両国回向院 力塚碑

裏面には年寄及び行司名が刻まれています

両国回向院 力塚碑陰 相撲年寄名跡


両国回向院 力塚碑陰 相撲年寄名跡

相撲年寄名跡

 正二位勲一等公爵徳川家達題字
先人ノ遺徳ヲ追慕シ弔祭ヲ絶タサルハ尊祖崇霊ノ美風ニシテ日本精神ノ真髄ナリ然ルニ力士行司ニシテ名声ヲ天下ニ馳セ斯道興隆ノ為ニ貢献シタル者モ時ニ名跡其ノ後ヲ缺クニ至レハ後世空シク無縁トナリ祭祀ノ典礼ヲ絶ツ憾ミナシトセス茲ニ大日本相撲協会ハ深ク之ヲ憂ヒ地ヲ回向院境内ニ相シ力塚ト称スル石塚ヲ建立シテ歴代相撲年寄ノ霊ヲ祀リ毎歳春秋長ニ祭祀ヲ営ミ大方ノ有志ト共ニ篤ク追薦ノ誠悃ヲ表シ以テ我邦唯一ノ国技タル相撲道ノ精神ヲ永遠ニ伝ヘムトスト云爾
昭和十一年一月
 陸軍大将正三位勲一等功三級尾野実信
 陸軍主計総監正四位勲一等功五級千葉郁治書
 財団法人大日本相撲協会建之


回向院相撲記

両国回向院 相撲関係石碑群 回向院相撲記

「昭和三十八年九月二十四日」

両国回向院 相撲関係石碑群 回向院相撲記裏

背面には「昭和十四年五月建立 出羽海梶之助」
碑文を昭和38年に改刻したようです

両国回向院 相撲関係石碑群 回向院相撲記

回向院相撲記

江戸勧進相撲が記録で判明した最初の場所は貞享元年(一六八四年)深川八幡宮境内である
其後 新材木町杉森稲荷 浅草御蔵前八幡神社 芝神明社 本所回向院 市ヶ谷八幡宮 芝西久保八幡宮 市ヶ谷長龍寺 深川三十三間堂 本所一ッ目八幡宮 茅場町薬師 芝愛宕山 神田明神と転々したが天保四年十月(一八三三年)から明治四十二年六月(一九〇九年)に国技館が建設されるまで七十六年間に亘って回向院境内が本場所の開催地となっていた
其後昭和二十九年九月蔵前国技館寛政とともに財団法人日本相撲協会はこの地を去るに当り力塚は残して永く先人の徳を慕い且大相撲回向院時代を偲ぶため力塚修復祭祀に際し之を記す
  昭和三十八年九月二十四日
     財団法人 日本相撲協会


その他 相撲を筆の力でひろめた
相撲記者の慰霊碑があります


これら相撲関係石碑群の東側には旧国技館がありました

両国回向院 山門


旧国技館跡 説明板
大相撲
Site of former Kokugikan Arena
旧国技館跡 [16]

 旧国技館は、天保四年(一八三三)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(一九〇九)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。
 ドーム型屋根の洋風建築で、収容人員は一万三千人にでした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
 しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(一九八三)に解体されました。
 左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
   墨田区


旧国技館跡 説明板 旧国技館写真


旧国技館(大鉄傘)跡 説明板

旧国技館(大鉄傘)跡
所在地 墨田区両国二丁目8番

 旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は、日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。
 この建物は、大正6年(1917)の火災と同12年(1923)の関東大震災、そして昭和20年(1945)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和21年(1946)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなどの格闘技の試合会場として使用されました。また、昭和33年(1958)以降は、日本大学講堂として使用されました。
 なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和60年(1985)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されています。
 令和3年3月  墨田区教育委員会

旧国技館(大鉄傘)跡 説明板 写真
(説明板より)
上:開館当初(個人蔵)/下:関東大震災前(すみだ郷土文化資料館蔵)
大正6年の火災後大修理で大きく変えました。


旧国技館(大鉄傘)跡 説明板2

相撲とは切っても切れない関係の回向院です

両国の相撲 いや日本の相撲の興隆は
回向院の境内から始まったといっても過言ではないでしょう



#両国 #回向院 #パワースポット
親方ちゃんねる【両国さんぽ】第二回・回向院

「親方ちゃんねる・両国さんぽ」と題し
両国のお店や名所などを巡って紹介する新企画となります!




両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
    にほんブログ村 写真ブログへ
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

明暦大火横死者等供養塔・海難供養碑 (両国回向院)

記事 NO.7770    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

両国 回向院
明暦大火横死者等供養塔・海難供養碑

両国回向院

両国の発展を決定づけた回向院
近代的な独特の門構えです

両国回向院 説明板
江戸の町
Eko-in Temple
回向院 [15]

 明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曽有大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
   墨田区


両国回向院 第二次世界大戦前の回向院

第二次世界大戦前の回向院
本堂向かって左にある建物が旧国技館です

両国回向院 説明板2

諸宗山 回向院

 明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者十万八千余人を弔うために建立された

 本尊  阿弥陀如来 東京都重要文化財指定

安政大地震(一八五五年)の死者二万五千人余を初めとして
江戸府内の無縁佛、天災地変に因る死者も埋葬され
近くは大正十二年の関東大地震の死者10万余人の分骨も 納骨堂に安置されています

江戸時代の雰囲気を伝える 史跡記念碑墓地がある

 明暦三年  大火石塔
 安政二年  大地震石塔
 鼠小僧次郎吉墓
 水子塚(寛政五年)松平定信建立
 猫に小判の話  猫塚
 勧進相撲発祥の地記念 力塚
 呼び出  定火消墓  木遣塚
 諸動物供養塔
 竹本義太夫墓
 岩瀬京傳、 京山、 加藤千陰墓


本堂の東側には 鼠小僧や山東京伝などの
墓碑や供養塔がまとめられ 文化財の宝庫となっています

両国回向院 供養塔群
△写真右の供養塔が
明暦3年(1657)1月 江戸市中の繁華街を焼いた
明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして
入水者・牢死者・行路病死者・処刑者
その他の横死者に対する供養のために造立された
「明暦大火横死者等供養塔」です

両国回向院 石造明暦大火横死者等供養塔

石造明暦大火横死者等供養塔

回向院 石造明暦大火横死者等供養塔
東京都指定有形文化財(歴史資料)
石造明暦大火横死者等供養塔 一基

     所在地 墨田区両国二-八-一〇 回向院内
     指定  昭和四十五年八月三日
 明暦三年(一六五七)一月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。
 もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。
 総高三・〇五メートル、延宝三年(一六七五)頃建立された。願主は回向院第二世住持信誉貞存。
 昭和六十二年三月二十日建設 東京都教育委員会

石造明暦大火横死者等供養塔 石造物海難供養碑

供養塔の横には海難事故による溺死者を埋葬供養した
「石造物海難供養碑」の説明板があります

両国回向院 石造物海難供養碑説明板

(墨田区登録文化財)
石造物海難供養碑
所在地 墨田区両国二丁目八番十号 回向院

 回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができます。
 六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸時代の白子港は木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していました。

①「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔
 文化十年(一八一三)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政三年(一八五六)に再建。正面の名号は増上寺六十六世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。

②「溺死四十七人墓」
 明治二年(一八六九)、函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩(現熊本県)のお雇い蒸気船が上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没し二百六十余名が亡くなりました。そのうち、富岡文吉らが知る四十七名を供養するために建立しました。

③「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔
 文化十一年(一八一四)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現愛知県西尾市平坂町)二港に属する溺死者のために建立しました。名号は徳本の書です。台座部分には中村仏庵の撰書により、天明二年(一七八二)の大黒屋光太夫の一件から、文化十一年に至る海難小史が綴られています。

④「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」
 安政四年(一八五七)四月二十日に紀州大川浦(現和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗組員七名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現静岡県牧之原市)で溺死しました。彼らを供養するために、江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人たちが世話人となり建立しました。

⑤「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
 寛政元年(一七八九)、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑です。帆の正面には犠牲者七名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。

⑥勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔
 文政八年(一八二五)の伊豆神津島(現束京都神津島村)の溺死者のために建立されました。のちに、天保、安政の遭難者名を追刻しました。

   平成二十三年二月  墨田区教育委員会

5 勢州白子三州高濱船溺死一切精霊

⑤の「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
三河平坂の施主が建立した帆掛船型の供養碑です





両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
    にほんブログ村 写真ブログへ
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

都指定旧跡 吉良邸跡 (本所松坂町公園)

記事 NO.7769    彩2021 両国歴史散歩 忠臣蔵

2021年11月7日訪問
吉良邸跡(東京都)

都指定旧跡 吉良邸跡
赤穂浪士元禄義挙の地

都指定旧跡 吉良邸跡 (本所松坂町公園)

両国小学校の少し西側に
なまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」があります

赤穂義士遺蹟 吉良邸跡

元禄15年(1702)12月14日
赤穂の四十七士が討ち入りしたところで
『忠臣蔵』で知られるところです

赤穂義士遺蹟吉良邸跡の碑

公園の入り口には
赤穂義士遺蹟吉良邸跡の碑が建っています

吉良邸跡 (本所松坂町公園)

刃傷事件の後 鍜治橋から当地に移り住みました

吉良邸跡 (本所松坂町公園) 吉良上野介座像

吉良上野介義央公座像

吉良邸跡 吉良上野介義央公座像建立の経緯

吉良上野介義央公座像建立の経緯

 平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。
 岡崎安宏氏の知人で横浜市在住の造形作家米山隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。
 愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、一六九〇年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿、形についてはこれをモデルに、そのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。
 吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。
 据え付けた台座は御影石を使用する。
本像制作に当たって、両国三丁目町会、吉良邸跡保存会、東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十二年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。
 また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現西尾市吉良町)が、吉良上野介公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。
 平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。

吉良邸跡 (本所松坂町公園)

吉良家上屋敷は広大で
東西73間(134m) 南北は34間(63m)あって
坪数2,550坪と記録されています

吉良邸跡 (本所松坂町公園)
邸内にある松坂稲荷

吉良邸跡 本所松坂町公園由来

本所松坂町公園由来

     所在地 墨田区両国三丁目十三番九号
     面積   九十七、五六平方メートル
 この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
 その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
 昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。
 周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷杜などの遺蹟があリ当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。
   墨田区


吉良邸跡 みしるし洗いの井戸
御首級洗いの井戸

吉良邸跡 吉良家家臣二十士の碑
吉良家家臣二十士の碑

吉良邸跡 (本所松坂町公園) 謎の石

松坂稲荷脇の南西角には
もの凄いパワーを放つ謎の石があります

大石や 仇討ち語る 片隅で

吉良邸跡 (本所松坂町公園) 謎の石

石を撫で ぱっと消えるや 歯の痛み

この石の周りには物を置かず綺麗にして
丁重に保存した方がよいと思います


吉良邸跡 (本所松坂町公園) 説明板

忠臣蔵
Site of former residence of lord Kira
吉良邸跡 [33]

 吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は二千五百五十坪(約八四〇〇平方㍍)だったとされています。
 吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(一七〇一)三月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。
 現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。
   墨田区

吉良邸跡 (本所松坂町公園) 山茶花


忠臣蔵 吉良邸正門跡

少し東に行ったところには 吉良邸正門跡があります

忠臣蔵 吉良邸正門跡 説明板

忠臣蔵
Site of the main gate of lord KIra's former residence
吉良邸正門跡

 この辺りに吉良邸正門がありました。
 元禄十五年(一七○二)十二月十四日、寅の刻(午前四時)の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
 赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固めたたため、飛び出すことも出来ず戦闘不能になったといわれています。
   墨田区


忠臣蔵 吉良邸正門跡 絵図






吉良邸跡 (本所松坂町公園)
都指定旧跡 吉良邸跡 (本所松坂町公園)

東京都 墨田区 両国3-13-9
Qrcode吉良邸跡
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

日本再発見  東京の史跡を歩く
にほんブログ村 写真ブログへ   
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

へいへい

Author:へいへい

開​設日​: ​20​06​/3​/2​5(​土)​

ヤフーブログから引っ越してきました。(2019/3/7)


四季折々美しい彩の国。見沼田んぼの自然や、埼玉県内及び周辺の観光地・穴場スポット・力石を紹介します。


FC2 ブログランキング

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 埼玉県情報へ
にほんブログ村


埼玉県ランキング

ツイッター:@2010_heihei

カテゴリ
最新コメント
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR