渋沢平九郎最期の地
記事 NO.7425 彩2020 飯能戦争で散った渋沢平九郎
2020年10月21日訪問
黒山 (越生町)
渋沢平九郎自決の地
幕末維新の史跡

昭和29年(1954年)に建てられた
「澁澤平九郎自決之地」の碑

「澁澤平九郎自決之地」の碑の脇には
越生町の新しい文化財解説板が設置されています

平九郎が座って自害したと伝わる自刃岩

渋沢栄一翁は明治45年4月14日に
この地を訪れています

(越生町文化財解説板より)
幕末のイケメン 渋沢平九郎

(越生町文化財解説板より)
平九郎は渋沢栄一の妻千代の弟で
栄一が渡欧する際 見立養子となり 渋沢姓を名乗りました

(越生町文化財解説板より)
渋沢平九郎
弘化4年11月7日(1847年12月24日)生
慶応4年5月23日(1868年 7月12日)没
関連記事: 顔振峠と平九郎茶屋 渋沢平九郎追懐碑
渋沢平九郎自決の地

埼玉県 越生町 黒山

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年10月21日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2020年10月21日訪問
黒山 (越生町)
渋沢平九郎自決の地
幕末維新の史跡

昭和29年(1954年)に建てられた
「澁澤平九郎自決之地」の碑

「澁澤平九郎自決之地」の碑の脇には
越生町の新しい文化財解説板が設置されています

渋沢平九郎自決の地
慶応4年(1868)5月23日、飯能で官軍に敗れた一人の振武軍兵士が顔振峠から黒山村へ下りてきた。官軍の斥候隊と遭遇した兵士は、孤軍奮闘後、路傍の石に座して自決した。首は越生の高札場に晒され、胴は黒山の人たちが全洞院に葬った。村人たちは、その壮絶な最期を讃え、「脱走の勇士様」(だっそ様)と崇めた。今市の横田佐平と島野喜兵衛は、密かに首を法恩寺に埋葬した。
やがて、この兵士は振武軍頭取尾高惇忠(後に初代富岡製糸場長)の弟平九郎、享年22歳であったことが判明した。平九郎は渋沢栄一の妻千代の弟で、渡欧する栄一の見立て養子となり、渋沢姓を名乗っていた。
「自刃岩」の傍らの茱萸(ぐみ)は、平九郎の血の色を宿す実をつけると言われ、「平九郎ぐみ」と呼ばれている。
昭和37年2月14日 町指定(史跡)
平九郎が座って自害したと伝わる自刃岩

渋沢栄一翁は明治45年4月14日に
この地を訪れています

(越生町文化財解説板より)
幕末のイケメン 渋沢平九郎

(越生町文化財解説板より)
平九郎は渋沢栄一の妻千代の弟で
栄一が渡欧する際 見立養子となり 渋沢姓を名乗りました

(越生町文化財解説板より)
渋沢平九郎
弘化4年11月7日(1847年12月24日)生
慶応4年5月23日(1868年 7月12日)没
関連記事: 顔振峠と平九郎茶屋 渋沢平九郎追懐碑
渋沢平九郎自決の地

埼玉県 越生町 黒山

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年10月21日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010