今市村の高札場跡
記事 NO.7426 彩2020 越生の史跡
2020年10月21日訪問
越生駅周辺 (越生町)
さらされた平九郎の首
幕末維新の史跡

越生町文化財解説板

今市村絵図 明治2年(1869)

高札場跡解説

現在 高札場跡の通りの向こうは
禅心無形流道場跡となっています

首は越生今市村の高札場付近に晒されましたが
高札場近くの法恩寺の僧侶らによって
密かに埋葬されたといわれています

その法恩寺には昭和39年に建てられた
「澁澤平九郎埋首之碑」が歴史を遺しています
平九郎の鎮魂を祈る
関連記事: 渋沢平九郎最期の地
越生今市の高札場跡

埼玉県 入間郡越生町 越生777-1

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年10月21日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2020年10月21日訪問
越生駅周辺 (越生町)
さらされた平九郎の首
幕末維新の史跡

越生町文化財解説板

今市村絵図 明治2年(1869)

高札場跡解説

高札場跡
江戸幕府は往来の激しい町や村の入口や中心部などの目立つ場所に、法度や掟書などを記した板札(高札)を掲げることを定めた。
この地方の政治経済の中心地だった「越生の今市」の高札場は、下町(現本町)の、この辺りにあった。文政11年(1828)の『新編武蔵風土記稿』には「高札場 下町の内にあり」「下町 宿の南の入口なり 是より下 河原宿迄街道に係れり」とある。
慶応4年(1868)5月、飯能戦争で官軍に敗れ、黒山で自決した振武軍の参謀、渋沢平九郎(渋沢栄一の義弟)の首が晒されたのは、ここの通り向こうである。
現在の越生町域に相当する17ヶ村にも、それぞれ高札場が置かれていた。大字龍ヶ谷(旧龍ヶ谷村)の秩父往還飯盛峠の登り口には、「札場」と呼ばれる地名がのこっている。
平成27年3月 越生町教育委員会
現在 高札場跡の通りの向こうは
禅心無形流道場跡となっています

首は越生今市村の高札場付近に晒されましたが
高札場近くの法恩寺の僧侶らによって
密かに埋葬されたといわれています

その法恩寺には昭和39年に建てられた
「澁澤平九郎埋首之碑」が歴史を遺しています
平九郎の鎮魂を祈る
関連記事: 渋沢平九郎最期の地
越生今市の高札場跡

埼玉県 入間郡越生町 越生777-1

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年10月21日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010