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青淵公園イルミネーション

記事 NO.7460    彩2020 イルミネーションを見てきました

2020年12月1日訪問
青淵公園 (深谷市)


青淵公園のイルミネーション
2020年 コロナ禍師走

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期間 令和2年11月3日・火曜日 祝日から令和3年1月15日・金曜日まで.
点灯時間 午後5時から午後9時 場所 旧渋沢邸「中の家」裏

祝 一万円札 渋沢栄一

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あっという間に今年最後の月
12月です

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初めて青淵公園のイルミネーションに行ってみました

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思ったより綺麗でした

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来年始まる NHK大河ドラマ
「青天を衝け」 楽しみです

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みなさまにとって 素敵な12月でありますように





青淵公園
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埼玉県 深谷市 (下手計・血洗島)
Qrcode青淵公園イルミ会場
(Mapion地図にアクセス)





撮影:2020年12月1日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED



日本再発見 深谷イルミ
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岡部陣屋跡

記事 NO.7461    彩2020 岡部陣屋跡に行ってきました

2020年11月11日訪問
岡部陣屋跡 (深谷市)


高島秋帆幽囚の地
岡部陣屋跡

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岡部陣屋の跡地に行ってみましたが

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一角に「秋帆先生幽囚之地」の石碑が残っているだけでした

「高島秋帆幽囚の地」説明板
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火技之中興洋兵之開祖 高島秋帆について

 高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄まちどしよりの家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。
 父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどした。
 天保 12(1841)年、秋帆 44 歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介した。その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。
 しかし翌 13(1842)年、秋帆は 中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。
 写真の碑がある場所は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。
   (深谷市 高島秋帆パンフレットより)

(裏)
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- 追記 -
そうそう 高島秋帆は
あの 日本一の力持ち三ノ宮卯之助と
同時代に生きた人物なんです

それから なぜ陣屋の遺構が残っていないのか
高島秋帆先生史跡保存会が建立した碑のみで
地元で「陣屋跡」の碑
あるいは説明板を作らなかったのはなぜでしょう
維新のどさくさに紛れて新政府軍についたから?
地元の豪農からたくさんお金をまきあげたから?
謎の岡部陣屋跡です



ここで話が変わります

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今は陣屋の面影が何もありませんが
ここは渋沢栄一の人生の礎となる出来事があったところです


唯一の遺構といえば
陣屋の通用門 地方門(じかたもん)が
個人宅に移築され残っています




岡部陣屋の地方門は渋沢栄一の人生に大きな影響を与えました
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日本の歴史を大きく変えた貴重な門です


渋沢栄一が17歳の時 父の名代で御用伺いに出向き
この地方門をくぐりました その時の代官の対応が
栄一の一生を支配する信念となったのです

代官との対応はあまりにも有名な話ですね
岡部陣屋と渋沢栄一

どんな思いでこの門を後にしたのか想像してみてください





岡部陣屋跡 高島秋帆幽囚の地
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埼玉県 深谷市 岡部1211
Qrcode岡部陣屋跡
(Mapion地図にアクセス)





撮影:2020年11月11日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED



日本再発見 岡部陣屋地方門
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薬師堂の水藩烈士弔魂碑

記事 NO.7462    彩2020 天狗党と渋沢栄一

2020年12月1日訪問
薬師堂 (深谷市)


水藩烈士弔魂碑
天狗党浪士2名が葬られた地

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血洗島の薬師堂は
岡部藩に討伐された天狗党浪士2名が葬られた地です

写真左が天狗党員2名を供養する
渋沢栄一撰・書による「水藩烈士弔魂碑」です

碑の隣にある石地蔵は安政7年 
東の家3代目の渋沢宗助らにより建立されました

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水藩烈士弔魂碑は
大正7年(1918年)に建立されました

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弔魂碑

 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
    青淵 渋沢栄一 撰并書



(裏)
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血洗嶋中建之




薬師堂
血洗島の薬師堂

埼玉県 深谷市 血洗島
Qrcode血洗島薬師堂
(Mapion地図にアクセス)





撮影:2020年12月1日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED



日本再発見 天狗党の乱
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城山公園の紅葉2020

記事 NO.7463    彩2020 令和2年の紅葉

2020年11月23日訪問
城山公園 (桶川市)


桶川紅葉2020
令和2年 コロナ禍紅葉

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城山公園
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埼玉県 桶川市 川田谷2839-1
Qrcode城山公園
(Mapion地図にアクセス)





撮影:2020年11月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED



日本再発見 埼玉の紅葉
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先妣渋沢氏招魂碑

記事 NO.7464    彩2020 渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑

2020年12月訪問
渋沢栄一の生地 (深谷市)

【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。


先妣渋沢氏招魂碑
亡き母を敬慕する栄一翁の心情

先妣渋沢氏招魂碑 中の家


先妣渋沢氏招魂碑 解説板


先妣渋沢氏招魂碑 碑文


先妣渋沢氏招魂碑 解説板碑文


先妣渋沢氏招魂碑

          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻

〔裏面〕
明治十六年癸未十一月七日      渋沢栄一建


先妣渋沢氏招魂碑 解説板読み下し


先妣渋沢氏招魂碑 解説板解説


【解説】

 この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。




先妣渋沢氏招魂碑 解説板大意


【大意】

えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。




中の家の前にある 渋沢家墓地
渋沢栄一父母の墓

左:栄一母(えい)の墓   右:栄一父(晩香)の墓







渋沢栄一生家 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
中の家の秋

埼玉県 深谷市 血洗島247-1
Qrcode渋沢栄一生家 中の家
(Mapion地図にアクセス)




撮影:2020年12月
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED



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晩香渋沢翁招魂碑

記事 NO.7465    彩2020 渋沢栄一翁の父 渋沢市郎右衛門の招魂碑

2020年12月訪問
渋沢栄一の生地 (深谷市)

【晩香渋沢翁招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。


晩香渋沢翁招魂碑
撰文は尾高惇忠

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晩香渋沢翁招魂碑

翁諱美雅。渋沢氏。通称市郎。号晩香。武蔵国血洗島村人。世農。考諱敬林君。妣高田氏。実同族諱政徳者第三子。嗣敬林君之後。配其長女。翁自幼嗜学。慨然有特立之志。而思慮周密、一事不苟。凡自耕稼生産之道。至尋常瑣事。必反復審思。本於実際。是以施設不差成算。家製藍。為品素精。至翁研究益到。名伝遠近。其業大盛。家産致優。至有郷人倣以立産者。村原係半原藩封内。藩侯有土木。若不時之費。毎令翁供財。翁毫無難色。曰。財之用。在応緩急耳。況藩命乎。又厚於親姻故旧、人或失産破家。則諄諄誘誨。為捐財賑恤。使其復産。故人皆称之不已。明治四年冬十一月二十二日病歿。年六十三。越五日葬其郷先兆之次。贈号曰藍田青於。五男八女。長男栄一君見為大蔵省三等出仕。叙正五位。長女適吉岡十郎。少女配外甥須永才三郎。委其家産。余夭。男栄一君以在東京。建招魂碑於谷中天王寺。以為行香之便。嗚呼翁行修於家。信及郷里。而老死畎畝之間。終無著于世。洵為可惜矣。然栄一君擢草莾居顕職。望属而名馳。蓋有所以矣哉。惇忠於翁有叔氏之親。而蒙師父之恩。謹叙其行状表之。

  租税大属尾高惇忠撰文 少内史正六位日下部東作書 少内史正六位巌谷修隷額


〔裏面〕
明治五年壬申十一月廿二日
男正五位 渋沢栄一建


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【解説】

 この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。




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【大意】

 翁は、諱は美雅といい、通称は市郎、晩香と号した。武蔵国血洗島に、代々農業を生業とする渋沢家に生まれた。翁の父の諱は敬林、母は高田氏。もとは同族(東の家)の政徳の第三子である。養子として中の家に入り、敬林の後を継ぎ、その長女を妻とした。
 幼少より学問を好み、はっきりとした独立の志を持っていた。そして、思慮深く、ささいたことでも疎かにしなかった。家の仕事や日常の細々とした事まで、慎重に考え、事実に基づいて判断した。このようなわけで、何事も見通しと違うようなことはなかった。
 実家の藍玉づくりでは、もともと品質を大事にしてきたが、翁に至って、ますます研究が深まった。翁の名は広く知れ渡り、藍玉づくりは大変盛んになり、財産も大いに増えた。地元の人で、藍玉づくりを習って生計を立てるものもあらわれた。
 村はもともと半原藩の領地で、藩主の方で土木工事や不意の出費がある時は、いつも翁に費用を出させたが、翁は少しも苦にしなかった。翁が言うことに、「お金というのは緊急の時に使うためにあるのであって、まして藩の命令ならなおさらである。」というのである。また、親戚や古い友人に対しても同じようにした。他人で財産を失って家を傾ける人があれば、よく教えを諭すとともに、自らの財産を投げ打って助けてやり、元通りの生活が出来るようにした。それゆえ、だれもが翁を称賛してやまなかった。
 翁の行状は、家を修め、信用は郷里全体に及んだが、生涯を一農民として過ごしたため、世の中に知られることがなかったのは、まことに残念である。しかし、栄一の君が国家の中枢の仕事に携わり、大いに期待されているのも、翁の感化があったればこそといえるのである。惇忠にとって翁は、叔父であるが、父親以上に親愛の情を注いでくれた。謹んでその一生を文章に表すものである。



栄一の父母の招魂碑
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旧渋沢邸「中の家」の敷地内に移設された招魂碑






渋沢栄一生家 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
中の家の秋

埼玉県 深谷市 血洗島247-1
Qrcode渋沢栄一生家 中の家
(Mapion地図にアクセス)




撮影:2020年12月
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED



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東京からたった30分 大宮公園の紅葉

記事 NO.7466    彩2020 東京から...たった30分

2020年12月6日訪問
大宮公園 (さいたま市)

昭和30年代の公園案内図
大宮公園の紅葉2020

昭和30年代の大宮公園チラシ

昭和30年代の大宮公園のチラシです


日本庭園のモミジも色付いてきました

大宮公園日本庭園の紅葉

今年の紅葉は残念な紅葉です

コロナ禍大宮公園日本庭園の紅葉

美しさがイマイチです

大宮公園ボート池紅葉

運動のために

大宮公園を一回りしてきました

コロナ禍大宮公園ボート池の紅葉


キラキラ紅葉


きらり紅葉 錦色


紅葉と氷川神社


最初の写真は この解説板のチラシ部分を撮影したものです

歴史解説NO.9 大宮公園のチラシ


歴史解説No.9
昭和三十年代の大宮公園

 このチラシには昭和三五年四月九日に竣工したサッカー場がありません。
 また、昭和三十年一月九日竣工の弓道場が掲載されていることから、昭和三十年代前半の大宮公園の様子を表したものと思われます。
 東京からたった三十分との言葉からもわかるように、当時の大宮公園には、東京からの行楽客が数多く訪れていました。
    平成一七年九月 大宮公園事務所









大宮公園/氷川神社
紅葉と氷川神社


埼玉県 さいたま市 大宮区 高鼻町4丁目
Qrcode大宮公園
(Mapion地図にアクセス)




撮影:2020年12月6日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED



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開​設日​: ​20​06​/3​/2​5(​土)​

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