埼玉から眺める初夏の富士
知っているようで知らない見沼代用水
記事 NO.7629 彩2021 見沼代用水みどころ
2021年5月25日訪問
瓦葺伏越(蓮田市)
瓦葺伏越
掛樋から伏越になりました

瓦葺伏越-蓮田市-
綾瀬川の左岸(東側)が蓮田市
右岸(西側)が上尾市です
見沼代用水はここで綾瀬川の下を流れます

瓦葺伏越-上尾市-
△綾瀬川をくぐった水は ここから出てきます

瓦葺伏越-上尾市-
△2つに分岐して流れていきます

蓮田市側の見沼代用水脇には
見沼代用水に関する石碑が建っています

古い石碑は機会があったら紹介します
今回は令和元年に建てられた石碑です

世界かんがい施設遺産
見沼代用水

裏
令和元年九月四日
世界かんがい施設遺産登録
世界かんがい施設遺産の碑です

見沼代用水は令和元年9月に
世界かんがい施設遺産に登録されました
世界かんがい施設遺産とは
国際かんがい排水委員会(ICID)が、建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの等、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を登録・表彰するものです。
世界かんがい施設遺産とは(PDF : 563KB)
日本国内の登録施設位置図(PDF : 1,225KB)
このブログの中の「見沼代用水」
関連記事一部紹介
↓ ↓
クリック
瓦葺掛樋跡 蓮田市側

埼玉県 蓮田市

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉歴史散歩 見沼代用水を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年5月25日訪問
瓦葺伏越(蓮田市)
掛樋から伏越になりました

瓦葺伏越-蓮田市-
綾瀬川の左岸(東側)が蓮田市
右岸(西側)が上尾市です
見沼代用水はここで綾瀬川の下を流れます

瓦葺伏越-上尾市-
△綾瀬川をくぐった水は ここから出てきます

瓦葺伏越-上尾市-
△2つに分岐して流れていきます

蓮田市側の見沼代用水脇には
見沼代用水に関する石碑が建っています

古い石碑は機会があったら紹介します
今回は令和元年に建てられた石碑です

世界かんがい施設遺産
見沼代用水

裏
令和元年九月四日
世界かんがい施設遺産登録
世界かんがい施設遺産の碑です

見沼代用水は令和元年9月に
世界かんがい施設遺産に登録されました
世界かんがい施設遺産とは
国際かんがい排水委員会(ICID)が、建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの等、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を登録・表彰するものです。
世界かんがい施設遺産とは(PDF : 563KB)
日本国内の登録施設位置図(PDF : 1,225KB)
このブログの中の「見沼代用水」
関連記事一部紹介
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瓦葺掛樋跡 蓮田市側

埼玉県 蓮田市

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉歴史散歩 見沼代用水を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
瓦葺掛樋跡(上尾市)
記事 NO.7628 彩2021 見沼代用水みどころ
2021年5月25日訪問
瓦葺掛樋跡(上尾市)
瓦葺掛樋跡
見沼代用水路の重要構造物

明治時代の遺構が残る貴重な文化財です

煉瓦は渋沢栄一がかかわった
日本煉瓦製造株式会社製です


昨日の復習です
掛樋(かけどい)とは水を導く水路 樋をかけて水を引くしかけです
ここで見沼代用水路と綾瀬川が立体交差し
見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分岐します

下に流れているのが綾瀬川

江戸期から昭和初期にかけて
見沼代用水は綾瀬川の上を流れていました

煉瓦が当時の様子を伝えています
煉瓦数は約25万個
現在は綾瀬川の下を流れています


△写真をくらべてみてくださ▽

満水時の鉄製掛樋
(瓦葺掛樋跡 説明板より)
△明治後期から昭和初期の様子です
綾瀬川掛樋図

武蔵名所図
(国立国会図書館ウェブサイトより)
△江戸期の様子が詳しく描かれています
木製の掛樋の中には船が描かれ
見沼代用水が輸送ルートであったことも分かります
瓦葺掛樋跡

埼玉県 上尾市 瓦葺286-2

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉歴史散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年5月25日訪問
瓦葺掛樋跡(上尾市)
見沼代用水路の重要構造物

明治時代の遺構が残る貴重な文化財です

煉瓦は渋沢栄一がかかわった
日本煉瓦製造株式会社製です


上尾市登録文化財 記念物(史跡)瓦葺掛樋跡
上尾市大字瓦葺二八六-二 平成二七年一一月一七日登録
「瓦葺掛樋」は、見沼代用水路の重要構造物のひとつで、瓦葺の地で、見沼代用水路と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられていたものである。見沼代用水は享保一三(1728)年に、「見沼溜井(現・さいたま市)」と呼ばれる溜池が新田開発で干拓されたことに伴い、代替の農業用水を利根川から導水するため開削された。当初は水路の両側に盛り土をして堤を築き木製の樋を掛ける構造であったが、その後、すべて板囲いに改められて、以後この形で明治期まで続いた。洪水などによる被害がなくとも大量の通水があるため、度々漏水腐食が生じ、毎年のように修理が行われ十年以内の年限で架替も必要であったとされる。
現在残されている煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四一(1908)年に樋が鉄製に改造された際の構造物の一部である。
見沼代用水の流路上に存在した掛樋の多くが江戸時代の間に川などの下をくぐる伏越へと変えられた中、瓦葺掛樋はその後も長く用いられ続けた。しかし、昭和三六(1961)年に長年の流水による水路の変形や下流での流水不足などのため廃止され、綾瀬川の下をくぐる伏越に変更され現在に至っている。昭和五六(1981)年立合橋の再建に伴いレンガ積みの一部が取り壊されたが、見沼代用水の重要構造物に位置付けられているもののうちで唯一、明治時代の遺構が残る貴重な文化財である。
なお、現存す煉瓦は上敷免村(現・深谷市)の日本煉瓦製造株式会社で製造されたものであり、「上敷免」の極印が刻まれたものも存在する。
昨日の復習です
掛樋(かけどい)とは水を導く水路 樋をかけて水を引くしかけです
ここで見沼代用水路と綾瀬川が立体交差し
見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分岐します

下に流れているのが綾瀬川

江戸期から昭和初期にかけて
見沼代用水は綾瀬川の上を流れていました

煉瓦が当時の様子を伝えています
煉瓦数は約25万個
現在は綾瀬川の下を流れています


△写真をくらべてみてくださ▽

満水時の鉄製掛樋
(瓦葺掛樋跡 説明板より)
△明治後期から昭和初期の様子です
綾瀬川掛樋図

武蔵名所図
(国立国会図書館ウェブサイトより)
△江戸期の様子が詳しく描かれています
木製の掛樋の中には船が描かれ
見沼代用水が輸送ルートであったことも分かります
瓦葺掛樋跡

埼玉県 上尾市 瓦葺286-2

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉歴史散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
掛樋史跡公園(上尾市)
記事 NO.7627 彩2021 見沼代用水みどころ
2021年5月25日訪問
掛樋史跡公園(上尾市)
瓦葺掛樋跡
見沼代用水路の重要構造物

江戸時代の掛樋のレリーフ

掛樋(かけどい)とは水を導く水路 樋をかけて水を引くしかけです
ここで見沼代用水路と綾瀬川が立体交差し
見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分岐します



江戸時代の木造の跡はみることができませんが
明治時代の掛樋の一部のレンガが残っています
掛樋周辺図

江戸時代・明治時代は綾瀬川の上を流れる 掛け樋でしたが
現在は下を流れる伏せ越になっています
見沼代用水

写真 左:東縁 右:西縁
蓮田市から流れてきた見沼代用水は
ここで分岐し さいたま市を巡り川口市に流れていきます
掛樋史跡公園

埼玉県 上尾市 大字瓦葺 字堤外286番3

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉歴史散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年5月25日訪問
掛樋史跡公園(上尾市)
見沼代用水路の重要構造物

江戸時代の掛樋のレリーフ

掛樋(かけどい)とは水を導く水路 樋をかけて水を引くしかけです
ここで見沼代用水路と綾瀬川が立体交差し
見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分岐します


「瓦葺懸渡井官費営繕之真景図」のレリーフ
上尾市指定有形文化財
歴史資料 昭和61年3月31日指定
このレリーフは平成元年(1989)年に上尾市指定有形文化財「瓦葺懸渡井官費営繕之真景図」(上尾市教育委員会蔵)を参考に制作されたものである。「真景図」(上瓦葺村の黒須家旧蔵)は、明治初期の掛樋の姿を描いたもので、掛渡井、懸樋などとも呼ばれていた掛樋が木製であった頃の様子をよく知ることができる貴重な歴史資料である。
画面中央を下(北)から上(南)へ流れる綾瀬川の上に木製の掛樋が架けられており、その上を画面左から画面中央に向かって見沼代用水が流れている。用水はこの瓦葺の地で台地の縁に沿って東縁と西縁に分流する。
見沼代用水と元荒川が交わる場所に設けられた柴山伏越(白岡市)のような川の下をくぐる伏越に対して、掛樋には通船の便があり、舟運にも用いられ、河岸場も存在した。
平成30年12月 上尾市教育委員会

江戸時代の木造の跡はみることができませんが
明治時代の掛樋の一部のレンガが残っています
掛樋周辺図

江戸時代・明治時代は綾瀬川の上を流れる 掛け樋でしたが
現在は下を流れる伏せ越になっています
見沼代用水

写真 左:東縁 右:西縁
蓮田市から流れてきた見沼代用水は
ここで分岐し さいたま市を巡り川口市に流れていきます
掛樋史跡公園

埼玉県 上尾市 大字瓦葺 字堤外286番3

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉歴史散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
琴平神社の整理された力石
記事 NO.7626 彩2021 社号に悩まされました
2021年5月12日訪問
琴平神社(久喜市)
琴平神社の力石
平成14年に整理

平成14年の琴平神社本殿改築にともなって
力石も整理されました

説明板の文字は全て奇麗に消えていました
誰かが やすりのようなもので削ったのでしょうか?
なぜ文字が消えた(消された)のか謎です

卯之助の文字が刻まれた力石があるのですが
卯之助の文字を確認することができませんでした
じっくり細かく見れば確認できるのかも知れません

拝殿の西面には
平成14年本殿改築の時の寄付者の名前があり

最後の方に
力石整理特別寄付
一、金弐拾万円也 当所■■■■殿
と あります

力石を未来に伝えていくためには
たくさんの方の善意と協力が必要ですね

諏訪神社(通称 琴平神社)

埼玉県 久喜市 太田袋586

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月12日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉力石散歩 久喜を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年5月12日訪問
琴平神社(久喜市)
平成14年に整理

平成14年の琴平神社本殿改築にともなって
力石も整理されました

説明板の文字は全て奇麗に消えていました
誰かが やすりのようなもので削ったのでしょうか?
なぜ文字が消えた(消された)のか謎です

卯之助の文字が刻まれた力石があるのですが
卯之助の文字を確認することができませんでした
じっくり細かく見れば確認できるのかも知れません

拝殿の西面には
平成14年本殿改築の時の寄付者の名前があり

最後の方に
力石整理特別寄付
一、金弐拾万円也 当所■■■■殿
と あります

力石を未来に伝えていくためには
たくさんの方の善意と協力が必要ですね

諏訪神社(通称 琴平神社)

埼玉県 久喜市 太田袋586

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月12日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉力石散歩 久喜を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
神社の名は?2
記事 NO.7625 彩2021 昨日のつづき
2021年5月12日訪問
□□神社(久喜市)
久喜市太田袋の神社
社号混乱

拝殿軒下には3つの扁額が掲げられています
△写真 手前の扁額からみていきます

この神社に残る一番古い扁額だと思います
「金毘羅大権現」

中央の扁額
「金毘羅大権現」

東京市の頃[1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)]に奉納された扁額
「琴平神社」

2002年(平成14年)に この位置に移動整理された力石
後ろには「合祀記念之碑」があります


碑文に
江面村太田袋にあった「諏訪神社」「浅間神社」の二社は
明治43年3月14日に ここ「琴平神社」に移し
社号を「諏訪神社」と改めるとあります
いつの頃か分かりませんが金毘羅大権現(金毘羅神社)が
「コンピラ」から「コトヒラ」に転じ琴平神社になり
合祀の際に諏訪神社になったので社号が混乱したのでしょう
地元では今でも「金毘羅様」「琴平神社」とよんでいるようです
諏訪神社(通称 琴平神社)

埼玉県 久喜市 太田袋586

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月12日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉力石散歩 久喜を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年5月12日訪問
□□神社(久喜市)
社号混乱

拝殿軒下には3つの扁額が掲げられています
△写真 手前の扁額からみていきます

この神社に残る一番古い扁額だと思います
「金毘羅大権現」

中央の扁額
「金毘羅大権現」

東京市の頃[1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)]に奉納された扁額
「琴平神社」

2002年(平成14年)に この位置に移動整理された力石
後ろには「合祀記念之碑」があります


合祀記念之碑
合祀記念之碑
武藏國南埼玉郡江面村大字太田袋
諏訪神社淺間神社
右二座以明治四十三年三月十四日奉遷于琴平
神社殿内而合祀之改社號稱諏訪神社
大正二年四月三日建之
碑文に
江面村太田袋にあった「諏訪神社」「浅間神社」の二社は
明治43年3月14日に ここ「琴平神社」に移し
社号を「諏訪神社」と改めるとあります
いつの頃か分かりませんが金毘羅大権現(金毘羅神社)が
「コンピラ」から「コトヒラ」に転じ琴平神社になり
合祀の際に諏訪神社になったので社号が混乱したのでしょう
地元では今でも「金毘羅様」「琴平神社」とよんでいるようです
諏訪神社(通称 琴平神社)

埼玉県 久喜市 太田袋586

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月12日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉力石散歩 久喜を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010