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隅田川テラスを歩く8(最終回)

記事 NO.7750    彩2021 浅草を歩く8(最終回)

2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)

三囲神社(みめぐりじんじゃ)
お江戸散歩 浅草編6時間目

三囲神社(みめぐりじんじゃ)

向島に鎮座する三囲神社

石垣の歌碑 日比翁助

三囲神社の入口に日比翁助(三越百貨店の創始者)の
石垣の歌碑があります
「いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色 日比美勲」

53三囲神社 石垣の歌碑 日比翁助

<日比翁助 石垣の歌碑>

「石垣には巨大な石塊が積み重ねられ、其間に小さな石があって空隙を埋め、其上に大石が泰然として据えてある。石垣は大石のみで出来るものでない。小石は不要の様に見へるかも知れぬが、もしあの石の中から一の小石を抜き去って見よ、堅牢な石垣も少しの事故で崩壊し去るであらう。如何に巨大の石のみがあつても夫だけでは石垣の堅牢を期することが出来ぬ。小僧とか下足係と云ふ小石があつてよくその為すべきことを為せばこそ大石も始めて活用し堅牢な石垣となる。」
ということを詠ったものだという。

三井家では享保年間に
三囲神社を江戸における守護社と定めました

三囲のライオン像

三囲のライオン像

三囲のライオン像 説明板

三囲のライオン像

 三越の旧池袋店から移した 三越のシンボルであるライオン像は 大正3年 当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み 三越本店に 一対のライオン像を据えたのにはじまる 戦後 本店の像をもとに各支店に設置されている ライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオン像である なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は 大いに発展し 明治29年三越呉服店につながる


銅壺の台石
越に○は三越の商標
銅壺の台石

客に出す茶の湯を沸かす銅壺の台石に彫られ
越に○の雛形といわれています
明治29年から昭和の初期まで実際に使われていたものです


三囲のコンコンさん(みめぐりのこんこんさん)
三囲のコンコンさん(みめぐりのこんこんさん)

区登録文化財
58三囲のコンコンさん
享和二年(1802年)奉納

三囲のコンコンさん 説明板

三囲のコンコンさん

目尻のさがった温和な表情を ここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである 向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって木綿を主に扱っていた
享和2年(1802)の奉納


雨乞の句碑
雨乞の句碑

宝井其角「ゆうだちや」の句碑

此御神に 雨乞する 人にかはりて

 遊ふた地(夕立)や
 田を見めぐりの
 神ならば

  晋 其角

句頭に「ゆたか」を詠みこんだ一句です

碑は安永6年(1777年)に
其角末裔の六蔵庵宝井により建立されましたが
その後摩滅したため 明治6年(1873年)に
其角の流れをくむ其角堂永機により
再建されたことが本碑裏面に刻まれています

三囲神社の力石

この碑の周りには力石がいくつかあります

三囲神社の力石

何かと力石に縁のある其角です

三囲神社の力石 「鬼面石」
鬼面石

三囲神社 鬼平情景
鬼平情景


今回の散歩のトリは
三囲神社の大鳥居

三囲神社の鳥居とスカイツリー

土手下にある三囲神社の鳥居

三囲神社 堤下の大鳥居

対岸からでも鳥居の貫より上が見られるほど

三囲神社 堤下の大鳥居説明板

<墨田区登録文化財>
堤下の大鳥居と竹屋の渡し

   所在地 墨田区向島二丁目一番 墨田公園内
 隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークのひとつとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫より上が見られるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(一八六二)の建立です。
 三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。
 竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。
 昭和五年(一九三〇)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。
    平成二十年二月 墨田区教育委員会

68三囲にあやめ張交 部分

多くの浮世絵などの題材として描かれています

大鳥居と竹屋の渡し 壁面錦絵

おしまい






三囲神社
三囲神社(みめぐりじんじゃ)

東京都 墨田区 向島2-5-17


撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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隅田川テラスを歩く7

記事 NO.7749    彩2021 浅草を歩く7

2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)

待乳山から向島へ
お江戸散歩 浅草編5時間目

11待乳山 天狗坂
東都名所 真土山之図
(国立国会図書館ウェブサイトより)

待乳山の天狗坂が描かれています

待乳山 天狗坂

脚の不自由な方は
天狗坂を登らなくても

DSC_8644.jpg
乗車無料 桜レール

モノレールで山頂へ行けます

待乳山 さくらレール

待乳山は 江戸時代は東都随一の眺望の名所と称され
浮世絵や詩歌の題材にもなっています

待乳山 天狗坂

天狗坂は 昔は大木がうっそうと生い茂り
坂を下りたところに 竹屋の渡しがありました

山頂まで行って隅田川とスカイツリーを眺め
天狗坂を下りて今戸神社へ

今戸神社
今戸神社

「今戸焼発祥の地」 「沖田総司終焉の地」の碑があります

今戸神社 沖田総司終焉の地 碑

新選組 沖田総司最期の地は千駄ヶ谷という説が有力です


DSC_8669.jpg

今戸生まれの 招き猫です

今戸神社 招き猫

招き猫がたくさんいます

今戸神社 招き猫

可愛いですね

今戸神社 招き猫


桜橋を渡って向島へ行ってみましょう

DSC_8677.jpg

桜橋はX字型に架けられた車を通さない橋です
かつて「竹屋の渡し」が行き来していたところです

桜橋 東京スカイツリー
秋空に映えるスカイツリー

橋を渡り左に折れると 常夜燈が見えてきます

隅田川 墨田公園 常夜燈

墨田公園 常夜燈と渡し舟 説明板

常夜燈と渡し舟

隅田川の水運と向島風情の象徴
 この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。
 この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。

地図 隅田川 墨田公園 常夜燈現在地

堤を下りたところに
言問団子のお店があります

言問団子

小豆あん 白あん 青梅をかたどった味噌あんの
三色団子は人気です

言問団子と郡司大尉 説明板

言問団子と郡司大尉

 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。

道路の反対側には
榎本武揚 篆額の「墨堤植桜の碑」があります

墨堤植桜の碑 表

墨堤植桜の碑 説明板

墨堤植桜の碑

   所在 墨田区向島五丁目一番 墨田公園
 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保二年(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、享保十一年には、桜、桃、柳各百五十本を植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢、朝川黙翁、中山ト鄰が百五十本、天保二年(一八三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が百五十本、安政元年(一八五四)に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治二十年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
   平成二年三月 墨田区

墨堤植桜の碑 (裏)
墨堤植桜の碑 裏

近くには有名な桜もち本舗
「長命寺桜もち 山本や」があります

長命寺桜もち 山本や

34正岡子規仮寓の地 説明板

34正岡子規仮寓の地 説明板

正岡子規仮寓の地

 向じま 花さくころに 来る人の
     ひまなく物を 思いける哉
(「無何有洲七草集」女郎花の巻『寄寓隅田川名所恋』)

 近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヵ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次の句を詠んでいる。

 花の香を 若葉にこめて かぐわしき
      桜の餅 家つとにせよ

 明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も

 から山の 風すさふなり 古さとの
      隅田の櫻 今か散るらん
と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。

 子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴声は悲壮で、「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。

桜もち

長命寺佐久良餅
長命寺桜もち

桜の葉3枚でもちを包んでいます
お店では桜葉をはずして食べることを勧めています

桜葉は香り付けと乾燥を防ぐ為についているとのことです

包み紙と箱の桜の花の絵が素敵です

長命寺桜もちと力石

「桜もち」の店の前 首都高下の
「石庭の隅田川」に珍しい力石があります

石庭の隅田川 力石
-刻字-
東男の大石持 國技を偲ぶ 江戸趣味力遊び
昭和二十□年 秀太郎書

石庭の隅田川 力石

この石も
2016年10月にS氏がみつけたものです

石庭の隅田川


石庭の隅田川 説明板


石庭の隅田川

いや~ 疲れた~ 2万歩超えました (次回は三囲神社です)






隅田川テラス 今戸1丁目~向島2丁目
42DSC_8678.jpg

東京都 台東区


撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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隅田川テラスを歩く6

記事 NO.7748    彩2021 浅草を歩く6

2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)

山谷堀へ
お江戸散歩 浅草編4時間目

浅間神社 鳥居

浅草のお富士さんとして慕われている
「浅草富士浅間神社」に寄ってみます

浅間神社 御由緒説明板


浅間神社

    (浅草のお富士さん・台東区有形民俗文化財)
    台東区浅草五丁目3番二号
 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
 創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(一六七一)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約二メートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。
 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
 本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
 これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月。台東区有形民俗文化財に指定された。
 祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五・六月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。
   平成十二年三月
   台東区教育委員会

浅間神社 子授け石

富士塚浅草富士の麓には
「子授け石」がありました

浅間神社 富士塚 浅草富士
富士塚 浅草富士

浅草富士浅間神社と三好町 説明板

浅草富士浅間神社と三好町

 富士の山に似た小高い丘に勧請されたとされる当社は、元々は現蔵前の地である旧浅草三好町十番地に富士権現として鎮座されていたが、江戸時代元禄年間(一六八八~一七〇三)に幕府の命により現在の地に遷座されたと云われている。
 この三好町とは、『新選東京名所図会 浅草区之部』に「浅草三好町。東は駒形河岸の南端に接し、西は電車路線を隔てて黒船町の一部に八幡町の一部に対し。南は南元町の北端に面し、北は黒船町の一部に隣れり。 地勢は平夷にして。土地の番号は一より十に至る。」と記されており、現在の蔵前二丁目周辺と考えられる。
 更に同書に依れば、「三好」とは「 船首 ( みよし ) 」からの当て字とされており、この地一帯が地域における重要な御厨河岸であった事を表しているのであろう。
 旧三好町自体は、時代の趨勢によりその名称が途切れているが、元禄年間以前からの同権現社の氏子であり、現在地へ遷座以降も、永きに亘り同じく当社の氏子として御祭礼に奉仕されると共に、今も尚その護持運営に格別なる御尽力を頂いている。


ここから少し歩き
「浅草合力稲荷神社」に到着です

浅草合力稲荷神社

小さな神社です

浅草合力稲荷神社 御由緒

浅草合力稲荷神社
(正一位合力稲荷大明神)
    稲荷本地仏十一面観音
    浅草六丁目四十二番地
御祭神 保食神(ウケモチノカミ)
創建  永禄年中(一五五六~)良法院護持
縁起  当社は永禄年中 山谷村百姓一同にて郷中鎮守として奉斎
御祭神は生活の基をなす食を司る神として御神威を発揚され四百数十年に亘り庶民の信仰を集め尊栄を見守る

馬頭観音合祀  寛文三年(一六六三)四代将軍家綱
日光社参の砌 御乗馬 名馬【荒波】千住宿にて死亡依って当社に於いて荒波馬頭として是を奉る
将軍の愛馬を祀る縁により敷地六十坪は除地となって年貢は免除となる
日本堤の土手下に有り「土手のお稲荷さん」として
江戸時代より現在に至るまで多くの人々に崇められる

境内には江戸時代随一の力持ち「三ノ宮卯之助の力石」が奉納されている
  平成三十年五月吉日
  浅草馬三町会

浅草合力稲荷神社 境内

小さな神社の大きな石

浅草合力稲荷神社の力石 三ノ宮卯之助 足持石

この「足持石」は2009年11月にS氏が見つけた卯之助の石です

浅草合力稲荷神社 三ノ宮卯之助 足持石

力石の後ろには「江戸の花大力持三ノ宮卯之助」の引札と
「三ノ宮卯之助の力石」についての
NPO法人越谷市郷土研究会が記した金属板があります

浅草合力稲荷神社 三ノ宮卯之助 引札
引札

浅草合力稲荷神社 三ノ宮卯之助 足持石説明板

三ノ宮卯之助の力石

 三ノ宮卯之助(文化四(一八○七)年~嘉永七(一八五四)年)は埼玉県越谷市三野宮の出身。江戸時代の力持ちで各地の神社仏閣で力持興行を行いました。持ちあげた力石には、その名が刻まれていますが、卯之助の名がある石は姫路市、大阪市、下諏訪町、甲府市、鎌倉市などにもあります。また、力持ちの番付もあって、最高位の東方大関のものが残っています。桶川市に現存の石は計測すると六一〇Kgありました。これは現存の最重量の力石と思われます。当時のルールでは、手足をつかって持ち上げることが認められており、そうのような方法をつかったものと推定されます。当社さまの石にも「足持石」とあり、足も用いたものと思われます。
 当会では番付、活動範囲、現存の力石の重量により、卯之助が日本一の力持ちと考えております。
 この合力稲荷神社さまで卯之助力石を大切に保存していただいていることは、浅草馬三町会さまはじめ、会員の皆さま方の文化財に対するご理解とご芳情によるものと考え、卯之助の出身地である越谷市の私たとして、深い感謝を捧げ、敬意を表するものであります。
   令和二(二〇二〇)年一月吉日
   NPO法人 越谷市郷土研究会


浅草合力稲荷神社


浅草合力稲荷神社 三ノ宮卯之助 足持石説明板

三ノ宮卯之助の力石

    台東区浅草六丁目四十二番八号 合力稲荷神社
 力石は、「力比べ」や「曲持ち」を行うときに用いられた石である。江戸時代には、神社の祭礼などで力と技を競った。持ち上げた石には姓名などが刻まれ、寺社に奉納された。江戸時代後期には、職業的な力持ち力士による興行も行われるようになった。
 この力石は、江戸時代後期に奉納されたと推定される。高さ九三センチメートル、幅八○センチメートル、奥行き四八センチメートルの自然石である。石には、三ノ宮卯之助、足持石、数名の世話人の名が刻まれている。
 三ノ宮卯之助(一八○七~五四)は、現在の埼玉県越谷市三野宮に生まれ、力持ちを見世物とした一座を結成し、諸国を巡業した。嘉永元(一八四八)年六月の「力持番付」(山梨県立博物館蔵)には、当時の最高位である東の大関としてその名が記されており、卯之助の名が刻まれた力石は関東地方を中心に長野県、大阪府、兵庫県にも分布していることから、著名な人物であったと考えられる。卯之助は仰向けになり力石を足で差回す「曲持ち」や、馬一頭を乗せた小舟を持ち上げる技を得意としていたといわれ、「足持石」と刻まれているこの石も、足を使って持ち上げたことが推測される。
 境内にある力石の由来は明かではないが、江戸時代の信仰や娯楽の一端を知ることができる資料として、地元の浅草馬三町会により大切に保存されている。
  平成三十一年二月
  台東区教育委員会


社殿の扁額には
火消の「纏(まとい)」の絵が描かれています
浅草 合力稲荷大明神 扁額

東京市火消第五区の纏です
▽と比べてみてください
36東京町火消 第五区
(国立国会図書館ウェブサイトより)

合力稲荷神社は
新門辰五郎と何らかの縁があったものと思われます


日本堤跡 山谷堀の跡を歩いて隅田川に戻ります
そこは新吉原遊廓への通路です

山谷堀公園 猪牙船 説明板

山谷堀公園は山谷堀のあった上にあります

山谷堀公園 猪牙船

江戸時代には吉原に通う猪牙船で賑わったところです

山谷堀公園 説明板


山谷堀公園 東京スカイツリー

山谷堀公園から眺めるスカイツリー

山谷堀公園 待乳山 今戸橋 説明板


台東区道しるべ 現在地

次は「待乳山」へ行こうかな?(つづく)




隅田川テラス 浅草寺~山谷堀
山谷堀公園からの東京スカイツリー

東京都 台東区


撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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隅田川テラスを歩く5

記事 NO.7747    彩2021 浅草を歩く5

2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)

浅草寺 奥山へ
お江戸散歩 浅草編3時間目

浅草寺 雷門
浅草のシンボル雷門

現在の雷門は松下幸之助氏の寄進により
昭和35年(1960年)に再建されたものです
正式名称は「風雷神門」

賑やかな仲見世の先には

浅草寺 宝蔵門
浅草寺山門の宝蔵門

江戸時代は仁王門とよばれていました


浅草寺 本堂
本堂

国宝に指定されていた慶安の本堂は昭和20年(1945年)
3月10日の東京大空襲により焼失しましたが
その後全国の信徒からの浄財により
昭和33年(1958年)に再建されました


浅草寺 八、江戸時代 境内と奥山の賑わい 絵

浅草寺江戸時代 境内と奥山の賑わい

05浅草寺 八、江戸時代 境内と奥山の賑わい 説明

八、江戸時代 境内と奥山の賑わい

 江戸の繁栄とともに浅草寺の参詣者も増え、やがて江戸随一の盛り場となった。江戸文化の最盛期、境内には百数十の神仏の祠堂(しどう)が建ち並ぶ庶民信仰の聖地となる一方、奥山では松井源水のコマ廻し、長井兵助の居合抜き、のぞきからくり、辻講釈などの大道芸や見世物が参詣者を喜ばせ、水茶屋・楊枝店・矢場(やば)なども立ち並んだのである。さらに春の節分をはじめ季節の行事は大変な賑わいを呈した。
 明治に入って、浅草寺の境内地は「浅草公園」となり、その第六区が興行街となって日本の映画史、演劇史の上に大きな足跡を残した。同十五年鉄道馬車が開通、同二十三年には浅草一帯を眼下に望む「十二階」が開業されるなど、浅草は文明開化のさきがけを誇った。


浅草寺 奥山(新奥山)説明板

奥山(新奥山)

 江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
 奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けら れたと思われる。
 明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・ 映画のメッ力として栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
 現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の賑わいを伝える記念碑も建てられてい る。
    金龍山 浅草寺

奥山(新奥山)には力石の碑があります

浅草寺 奥山(新奥山) 力石説明板

力石

 力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
 正面の「力石・熊遊の碑」は、明治七年(一八七四)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約三七五キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。
    金龍山 浅草寺

力石「熊遊」
浅草寺 奥山(新奥山) 力石

この石を持ち上げた『鬼熊』が働いていた
「豊島屋」は慶長元年(1596年)に開業

なんと現在も白酒が有名な「豊島屋本店」として
神田猿楽町で営業しています

力石に刻まれている豊島屋の社標(トレードマーク)「カネジュウ」 (カネジュウ)は
現在でも変更されることなく
豊島屋の社標(トレードマーク)になっています

浅草寺 奥山(新奥山) 力石

この力石の碑を建てた新門辰五郎は
江戸時代後期の町火消 侠客です

浅草寺 奥山(新奥山) 力石

碑の周りには
「大亀石」や「大石」などの力石も置かれています


その他 奥山には たくさんの記念碑があります
その中から「喜劇人の碑」の写真をどうぞ

浅草寺 奥山(新奥山) 喜劇人の碑 表
喜劇人の碑(表)

浅草寺 奥山(新奥山) 喜劇人の碑 裏
喜劇人の碑(裏)


浅草寺 五重塔

奥山から眺める五重塔も美しいです

浅草寺 奥山門

奥山門から「奥山おまいりまち」に出ると

浅草寺 大道芸能座 紙芝居

大道芸能座の紙芝居がいました


そして 浅草の昼飲みスポット「ホッピー通り」!

浅草寺 ホッピー通り

ホッピーを飲みながらゆっくり休憩するのもよいでしょう

浅草寺 浅草六区

浅草六区通りをぶらぶら歩いて

浅草寺 花やしき

日本最初の遊園地といわれている「花やしき」の前を通って

浅草寺 おまつり西参道商店街

昼食を済ませてから
合力稲荷神社へ向かいます(つづく)




隅田川テラス 浅草寺
浅草寺 雷門

東京都 台東区


撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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隅田川テラスを歩く4

記事 NO.7746    彩2021 浅草を歩く4

2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)

浅草御蔵跡を歩く
お江戸散歩 浅草編2時間目

首尾の松

蔵前橋西詰にある「首尾の松」にやってきました

首尾の松 碑

実際の松はここから約100m川下にあり
枝が川面にさしかかるように枝垂れていました

首尾の松 説明板

首尾の松

この碑から約百メートル川下に当たる。浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
1、寛永年間(1624~43)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
2、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
3、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
 初代「首尾の松」は安永年間(1772~80)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(1854~59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。

歌川広重の浮世絵 絵碑

歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』にも描かれています
隅田川テラスの絵碑です

34隅田川長流図巻 首尾松

テラスの壁面には『隅田川長流図巻』も掲げられています
『隅田川長流図巻』の「首尾の松」の部分の写真です
川面に垂れた枝の様子がわかります

35浅草御蔵前辺

この松は江戸時代の地図(絵図)にもあります
地図に描かれるほど有名だったのでしょう

36明治9年東京

明治9年の地図(絵図)にもあります
「首尾柗」の「柗」は「松」の異体字です

浅草御蔵跡碑

道路を挟んだ反対側には
浅草御蔵跡の碑があります

浅草御蔵跡碑

四番堀と五番掘の間に
現在は蔵前橋が架かっています

浅草御蔵跡碑 説明板

浅草御蔵跡碑

 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
 元和6年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋2丁目、蔵前1、2丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716~1736)頃までに浅草御蔵に吸収された。
 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という長命が生まれたのは、昭和9年(1934)のことである。
 碑は、昭和31年(1956)6月1日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会

39明治9年東京地図

御蔵跡から 青丸印の「八まん」へ向かいます
「八まん」は現在の「蔵前神社」です

蔵前神社の玉垣

昭和26年(1947年)
「石清水八幡宮」から「藏前神社」へ改称しました

蔵前神社の玉垣

相撲協会横綱の名が入った玉垣

蔵前神社の玉垣



蔵前神社 境内右手
境内右手の錦絵と落語元犬像

力持(相撲)と古典落語ゆかりの神社です

蔵前神社 境内右手 落語元犬像

「元犬」「阿武松」といった古典落語の舞台となっています

蔵前神社 境内右手 力持

境内で行われた「力持」の技芸の奉納を
歌川國安が描いた錦絵があります

蔵前神社 境内右手 力持説明板

浮世絵師 歌川國安錦絵
文政七年之春 
御藏前八幡宮二於而 奉納力持

 この錦絵は、文政七年(一八二四年)の春に、御藏前八幡宮(現・藏前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(一七九四年~一八三二年)です。
 素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。上の絵の「大関金藏」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金藏と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として製作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されていたのではないかとも言われています。
 また、この奉納力持が開催された御藏前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保四年(一八三三年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明二年二月場所では六十三連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。
 この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋~藏前橋の間)にも掲示されています。

蔵前神社 境内右手 力持

この錦絵は隅田川遊歩道・テラス
厩橋~藏前橋の間にもあります

隅田川テラス 御藏前八幡宮二於而 奉納力持

隅田川テラスの「御藏前八幡宮二於而 奉納力持」

隅田川テラス 御藏前八幡宮二於而 奉納力持

奉納力持
写真奥が厩橋

「うまやの渡し」の跡を過ぎ
しばらく隅田川に沿って歩きます

水上バス

吾妻橋が見えてきました

隅田川テラス 吾妻橋

階段を上がり浅草寺へ行きます (つづく)





隅田川テラス 蔵前橋~吾妻橋
吾妻橋
東京都 台東区


撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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隅田川テラスを歩く3

記事 NO.7745    彩2021 浅草を歩く3

2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)

わくわく江戸散歩
お江戸散歩 浅草編1時間目

火伏神 石塚稲荷神社

「廿六メ目」の力石に触れて 石塚稲荷神社に

入口には「柳橋藝妓組合」「柳橋料亭組合」の文字
玉垣には右から「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」
「はやし」「稲がき」「卯の木」「深川亭」「二葉」「鶴の家」と
川沿いに建っていた料亭名があります

この神社は 明治期から戦前まで隆盛を極めた
花街柳橋の貴重な遺構です

総武線ガード下

石塚稲荷神社を後に隅田川テラスに降ります
奥に架かる橋が両国橋です


江戸時代の「両国の花火」は有名ですね
川沿いの料理茶屋 水茶屋が打ち上げていたようです

隅田川テラス 両国花火

明治以降からも毎年行われていた「両国の川開き 花火」は
柳橋の料亭組合が中心となて運営されていました

中断した時期もありましたが
現在は「隅田川花火大会」として復活しました
(2020年 2021年はコロナ禍で中止)

隅田川テラス タイル絵とスカイツリー

JR総武本線の高架下の遊歩道を見ると
絵の描かれたタイルが敷かれいます

隅田川テラス タイル絵

力石の絵もあります

隅田川テラス タイル絵

力石と出会えて なにか得したような気分です

隅田川テラス タイル絵 力石
-追記-
江戸の火消しが待機中に遊んだかるた「ガラ札」をタイルにしたものです
江戸の華を代表するものが描かれています


少し北に歩き蔵前1丁目の手前でテラスを離れます

隅田川テラス案内図 蔵前橋-両国橋

200mほど西に進むと榊神社の鳥居が見えてきます

榊神社 標柱

榊神社が現在地に鎮座したのは昭和3年のことです

榊神社

ここは江戸時代は「浅草御蔵」でした

境内をみると

榊神社 井戸と力石

井戸の傍には大きな力石があります

榊神社 力石

傷んでいますが貫禄のある立派な石です

榊神社 力石

「大鳳石」と読むのでしょうか?
迫力のある文字です


その他境内には
「浅草文庫跡碑」などがあります
浅草文庫跡碑 説明板


浅草文庫跡碑

 浅草文庫は、明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館である。翌8年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊とも13万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
 明治14年(1881)5月に閉鎖。跡地は翌15年に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。
 昭和3年に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ約4メートルの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年11月建立された。
 平成13年3月 台東区教育委員会

浅草文庫碑

明治11年の地図を見ると
浅草御蔵に浅草文庫があったことがわかります

26 明治11年東京地図

浅草文庫は明治7年(1874)7月に創設され
明治14年(1881)5月に閉鎖

蔵前工業学園蹟

その跡地が蔵前工業学園になりました

蔵前工業学園之蹟 碑

蔵前工業学園之蹟の碑 碑文説明板

ここは江戸時代の米蔵跡だったんですね

榊神社

散歩は始まったばかり
これから北の方を目指します





隅田川テラス 両国橋~蔵前橋
隅田川テラス案内図 蔵前橋-両国橋
東京都 台東区


撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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隅田川テラスを歩く2

記事 NO.7744    彩2021 浅草を歩く2

2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)

「廿六メ目」の赤い文字
お江戸散歩 浅草編スタート

美家古鮨 本店

柳橋にある「美家古鮨 本店」の創業は
文化5年(1808年)に始めた屋台寿司
200年以上の歴史を誇る都内最古の江戸前鮨店です

慶応2年(1866年)に店舗を構え現在に至っています

美家古鮨本店の力石

お店の前には力石があります

美家古鮨本店の力石

S氏が2015年5月に見つけた力石です

美家古鮨本店の力石

今でも力石が健在です
うれしいですね

美家古鮨本店の力石

赤い廿六メ目の文字もしっかり見えます
なぜか黒い汚れがありますが ひと安心です




美家古鮨本店の力石
美家古鮨 本店

東京都 台東区 柳橋


撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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