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野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) /東京都墨田区

記事 NO.7767    彩2021 両国歴史散歩 相撲の神様

2021年11月7日訪問
野見宿禰神社(東京都)

大相撲 野見宿禰神社
相撲の始祖で土師氏の祖とされる野見宿禰を祀る神社

野見宿禰神社 説明板
大相撲
Nominosukune Shrine
野見宿禰神社 [10]

 かつてこの東側に高砂部屋がありました。明治十八年(一八八五)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
 石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
 境内には、昭和二十七年(一九五二)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
   墨田区


野見宿禰神社 玉垣

力士や相撲関係者の名前が刻まれた玉垣

野見宿禰神社 歴代横綱の石碑

境内には歴代横綱の名が刻まれた石碑があります

野見宿禰神社 歴代横綱の石碑 説明板

歴代横綱の石碑
所在地 墨田区亀沢二丁目八番十号  野見宿禰神社内

 歴代横綱の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和二十七年(一九五二)十一月に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
 野見宿禰神社は、明治十七年(一八八四)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。
 玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。
 創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。
   平成二十八年三月   墨田区教育委員会

野見宿禰神社 歴代横綱の石碑

初代明石志賀之助から47代朝潮太郎までの石碑
野見宿禰神社 歴代横綱の石碑1

歴代横綱之碑

  初代 宇都宮 明石志賀之助    二代 栃木  綾川五郎次     三代 仙台 丸山権太左衛門
  四代 仙台  谷風梶之助     五代 久留米 小野川喜三郎    六代 長州  阿武松緑之助
  七代 雲州  稲妻雷五郎     八代 紀伊  不知火諾右衛門   九代 仙台  秀ノ山雷五郎
  十代 柳川  雲龍久吉     十一代 肥後  不知火光右衛門  十二代 薩州  陣幕久五郎
 十三代 阿川  鬼面山谷五郎   十四代 尾州  境川浪右衛門   十五代 長州  梅ヶ谷藤太郎
 十六代 薩州  西ノ海嘉次郎   十七代 千葉  小錦八十吉    十八代 仙台  大砲万右衛門
 十九代 水戸  常陸山谷右衛門  二十代 越中  梅ヶ谷藤太郎  二十一代 武蔵  若嶌權四郎
二十二代 越中  太刀山峰右衛門 二十三代 灘   大木戸森右衛門 二十四代 千葉  鳳谷五郎
二十五代 鹿児島 西ノ海嘉次郎  二十六代 大阪  大錦卯一郎   二十七代 栃木  栃木山守也
二十八代 尾州  大錦大五郎   二十九代 陸中  宮城山福松    三十代 鹿児島 西ノ海嘉次郎
三十一代 岡山  常ノ花寛市   三十二代 土州  玉錦三右衛門  三十三代 武蔵  武藏山武
三十四代 常陸  男女ノ川登三  三十五代 豊前  双葉山定次   三十六代 越後  羽黒山政司
三十七代 安藝  安藝ノ海節男  三十八代 羽後  照國萬藏    三十九代 伊予  前田山英五郎
 四十代 武蔵  東富士謹一   四十一代 渡島  千代ノ山雅信  四十二代 青森  鏡里喜代治
四十三代 石狩  吉葉山潤之輔  四十四代 下総  栃錦清隆    四十五代 陸奥  若乃花勝治
四十六代 鹿児島 代朝汐太郎
  昭和二十七年十一月之建


47代柏戸剛以降の名前が刻まれている石碑
野見宿禰神社 歴代横綱の石碑2

歴代横綱之碑

四十七代 出羽  柏戸剛    四十八代 北海道 大鵬幸喜   四十九代 陸奥  栃ノ海晃嘉
 五十代 肥前  佐田の山晋松 五十一代 愛媛県 玉の海正洋  五十二代 北海道 北の富士勝昭
五十三代 鳥取県 琴櫻傑將   五十四代 石川県 輪島大士   五十五代 北海道 北の湖敏満
五十六代 青森県 若乃花幹士  五十七代 三重県 三重ノ海剛司 五十八代 北海道 千代の富士貢
五十九代 青森  隆の里俊英   六十代 三重県 双羽黒光司  六十一代 北海道 北勝海信芳
六十二代 北海道 大乃国康   六十三代 青森  旭富士正也  六十四代 米国  曙太郎
六十五代 東京  貴乃花光司  六十六代 東京  若乃花勝   六十七代 米国  武蔵丸光洋
六十八代 モンゴル 朝青龍明徳  六十九代 モンゴル 白鵬翔     七十代 モンゴル 日馬富士公平
七十一代 モンゴル 鶴竜力三郎  七十二代 茨城県 稀勢の里寛  七十三代 モンゴル 照ノ富士春雄


野見宿禰神社 東西力士会奉納碑

相撲の街 両国
北斎通りはみどころがいっぱいです

野見宿禰神社




野見宿禰神社
<野見宿禰神社

東京都 墨田区 亀沢2-8-1
Qrcode野見宿禰神社
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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榛馬場跡・葛飾北斎住居跡 (榛稲荷神社)

記事 NO.7766    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
榛稲荷神社(東京都)

榛稲荷神社
榛馬場跡と葛飾北斎住居跡

榛稲荷神社

榛稲荷神社はJR両国駅の南東にあります

江戸時代このあたりは
武士が馬術を訓練するための馬場でした

榛稲荷神社 榛馬場跡説明板

江戸の町
Site of former Han-noki Riding ground
榛馬場跡 [18]

 この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。
 勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。
 天保八年(一八三七)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗の奉紙立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。葛飾北斎も娘のお栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがあります。
   墨田区

榛稲荷神社 葛飾北斎住居跡 説明板

馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」で
葛飾北斎は この稲荷神社のすぐ近くに
住んでいたことがありました

榛稲荷神社 葛飾北斎住居跡 説明板

葛飾北斎住居跡
所在地 墨田区両国四丁目三十四番付近

 この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約百八十五m、南北約二十二mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛があったので、「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」です。
 本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は九十歳で没するまで常に新しい技法を試み、「富嶽三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。
 榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心は、「蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(「葛飾北斎伝」)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(一八四十頃)で、八十歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。
 北斎は生涯で九十回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確にわかっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。
 また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉の自伝「夢酔独言」の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。
  平成二十一年三月   墨田区教育委員会

榛稲荷神社 葛飾北斎住居跡 北斎仮宅写生
「北斎仮宅写生」(露木為一筆)




榛稲荷神社
榛稲荷神社

東京都 墨田区 両国4-34-11
Qrcode榛馬場跡(榛稲荷神社)
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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葛飾北斎生誕の地 /墨田区立 緑町公園

記事 NO.7765    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
墨田区立緑町公園(東京都)

葛飾北斎生誕の地
本所南割下水

すみだ北斎美術館

葛飾北斎の生まれ育った本所に
2016年11月に開館した「すみだ北斎美術館」

すみだ北斎美術館

弘前藩津軽家の上屋敷跡地に建っています

葛飾北斎生誕地 緑町公園 弘前藩津軽家上屋敷跡

津軽家の上屋敷跡である緑町公園には
赤富士のタイル画と葛飾北斎生誕地の説明板があります

葛飾北斎生誕地 説明板

絵画と文学
Birthplace of Ukiyo-e artist, Hokusai
葛飾北斎生誕地 [51]

 宝暦十(一七六〇)年九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。
 代表作『富嶽三十六景』は、天保二(一八三一)年から天保四(一八三三)年にかけて制作。とても七〇歳を過ぎてからの作品とは思えません。八〇歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永二(一八四九)年、「あと一〇年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。
   墨田区


緑町公園 赤富士 タイル画

美術館にはピーター・モースのコレクションをはじめ
世界的に評価の高い北斎の作品を展示しています


江戸時代に触れ 私たち先人の生活を学んで
子供たちがいつまでも笑顔で暮らせる
社会にしていきたいですね




墨田区立 緑町公園
すみだ北斎美術館

東京都 墨田区 亀沢2-7
Qrcodesすみだ北斎美術館 緑町公園
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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勝海舟生誕の地 /墨田区立 墨田公園

記事 NO.7764    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
墨田区立両国公園(東京都)

勝海舟生誕の地
勝海舟ゆかりの地両国公園

勝海舟肖像 勝海舟生誕の地説明板

海舟は慶応4年(1868)3月
高輪の薩摩藩邸において西郷隆盛と会見し
江戸城無血開城に成功 江戸市民を戦禍から救いました

勝海舟生誕の地 説明板

勝海舟生誕の地
所在地 墨田区両国四丁目二十五番

 勝海舟は、文政六年(一八二三)正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八○八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は旗本天野左京の自宅二階(現亀沢二丁目三番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(一八四三)二十一歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(一八五〇)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永六年六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(一八五五)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌三年に講武所砲術師範役、同六年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同七年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行などを務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(一八六八)三月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治八年(一八七五)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同十九年(一八八六)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治三十二年(一八九九)一月十九日、海舟は七七歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。

  平成二十三年三月  墨田区教育委員会

勝海舟幕末絵巻 墨田区立両国公園

公園内には勝海舟生誕の石碑や勝海舟幕末絵巻があり
ブロンズ椅子に座って記念撮影が撮れます

勝海舟幕末絵巻 生誕の地碑 由来碑 

勝海舟生誕之地
法務大臣 西郷吉之助書
勝海舟生誕の地 碑 表

「法務大臣西郷吉之助書」とありますが
西郷隆盛のことではなく第二次佐藤内閣の法務大臣を務めた
西郷隆盛の孫です

勝海舟生誕之地 碑文
勝海舟生誕の地 碑 裏

勝海舟生誕之地

勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政六年一月晦日この地男谷家邸内に生まる剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政七年咸臨丸艦長として渡米す明治元年三月十三日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり明治三十二年一月十九日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
昭和四十三年十二月吉日  秀魚書

勝海舟両国顕彰会
両國1丁目町会
両國2丁目町会
両國3丁目町会
両國4丁目町会有志
元男谷邸跡


由来碑 碑文
勝海舟生誕の地 由来碑

由来碑

 勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政六年(一八二三)一月□□日この地 男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(一八六〇)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶応四年(一八六八)三月十三日 高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
 明治三十二年(一八九九)一月二十一日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年七十七歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。
    平成元年十月 墨田区
   (幕府講武所剣術師範約 元 男谷邸跡)
(生まれた月日を修正したようです 十三日→三十日)


勝海舟幕末絵巻 墨田区立両国公園

勝海舟幕末絵巻

勝海舟幕末絵巻 墨田区立両国公園

勝海舟の功績がよくわかる幕末絵巻です


墨田区立 両国公園

咸臨丸をモチーフにした青い咸臨丸が
公園の目印になっています



墨田区立 両国公園
墨田区立 両国公園

東京都 墨田区 両国4-25
Qrcode墨田区 両国公園
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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芥川龍之介生育の地

記事 NO.7763    彩2021 両国文学散歩

2021年11月7日訪問
両国(東京都)

両国は芥川龍之介生育の地
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家

芥川龍之介肖像 大正10年撮影
芥川龍之介肖像 大正10年撮影
(「芥川龍之介生育の地」説明板より)

芥川龍之介生育の地 説明板

芥川龍之介生育の地
所在地 両国三丁目二十二番十一号

 大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地にあった母の実家芥川道章の家で、一歳に満たない頃から十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。三歳の頃、自宅が改築された様子や、新しい家の庭に榧や木斛、五葉の松などが植えられていたころを記憶し、特に蝋梅を愛したと述べています(「追憶」)。龍之介はこの家で、幼いころから読書や文字の練習、昔話を聞くなどの教育を受け、大切に育てられました。
 近くの回向院の敷地には、龍之介が通った幼稚園と小学校(現在の両国小学校)があり、境内で遊んだことも「本所両国」や「追憶」から知ることができます。小学校では友人たちと回覧雑誌を編集し、龍之介は数多くの文章を執筆、挿絵なども書きました。また小学校最後の夏休みの日記には、「今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀にちかい)ふりまわしながら大川端を散歩しました。緑の意図をたるゝ柳やまつくろな木立や活々した川の流れやカニの甲らをならべたよーな石崖などがのどかな朝日に照らされて一斉に喜びの聲を上げて之をむかへるよーにかゞやき渡っています。」(原文通り)と自然の残る隅田川の美しい情景を記しました。
 また、墨田川での水泳に夢中になっていたことを多く書いており、普通の少年らしい一面もうかがえます。
 作家芥川龍之介の原点は、ここ両国の地で刻まれていたのです。
平成二十六年七月    墨田区教育委員会


4歳頃の芥川龍之介
4歳頃の芥川龍之介

龍之介が暮らした頃の両国
龍之介が暮らした頃の両国

芥川龍之介生育の地 説明板

以上が歩道の車道側にある
「芥川龍之介生育の地」の説明板です


芥川龍之介生育の地 説明板

歩道の店舗ビル側にある
「芥川龍之介生育の地」の説明板には

芥川龍之介生育の地 説明板

芥川龍之介生育の地 両国三丁目二十一番四号

 芥川龍之介は、明治二五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後七カ月で、当時本所区小泉町一五番地(両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。
 芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。
 明治四三年(一九一〇)一九歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。「大道寺信輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(両国小学校)に入学しました。明治三八年(一九〇五)府立第三中学校(両国高等学校)に入学、同四三年成績優秀ににより無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後、大正二年東京帝国大学英文科に入学、大正五年卒業しました。
 大学在学中、同人雑誌「新思想」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、随筆にも優れました。
 昭和二年(一九二七)に三十五歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。
 龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。

 芥川龍之介賞
 通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えらる文学賞。昭和一〇年(一九三五)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。


本所小泉町芥川家
本所小泉町芥川家
が記されています

芥川龍之介生育の地 説明板


両国小学校の北西角には
児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑があります

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介の母校の創立150周年を記念して建てられました

芥川龍之介文学碑 説明板

芥川龍之介 文学碑

 芥川龍之介 は、 明治二十五年 ( 一九八二 )三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。
 芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見学するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
 本所 は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育くんだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年 回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で 第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、 夏目漱石 の門に入り同人誌「新思潮」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

 この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として平成二年十月に建立されたものです。


芥川龍之介文学碑

芥川龍之介 文学碑

   お前はもう仙人になりたといふ望も持っていまい。
大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。

   「杜子春」より




芥川龍之介文学碑
芥川龍之介文学碑






撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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両国橋のたもと 東と西

記事 NO.7762    彩2021 両国橋を歩く

2021年11月7日訪問
両国橋(東京都)

両国橋 西詰東詰
西の両国広小路と東の向こう両国

両国広小路 両国橋西詰

柳橋の南に広がる両国広小路

東京を流れる隅田川に千住大橋に続いて2番目に架けられた橋は
西に武蔵国 東に下総国の2つの国にまたがっていたことから
両国橋と呼ばれるようになりました

両国橋の西詰には

両国広小路碑 両国橋西詰

「旧跡 両国広小路」の碑があります

両国広小路 碑文 両国橋西詰

旧跡 両国広小路

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した 明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ 維新後百年を経た今日 まちの近代化はめざましく 広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが 300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには 先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため 町会の総意により この碑を建てた
   昭和44年11月3日
   中央区日本橋両国町会 建碑
   施工 青山 石勝ガーデン

江戸時代の面影を残す 現在の広小路
両国広小路 両国橋西詰 朝

江戸時代は この火除けの空き地に
芝居小屋や寄席 腰掛茶屋が立ち並びました

両国橋

橋の東側をみてみましょう

両国橋 東詰

「表忠碑」の奥の低くなっているあたりが
両国橋東詰の火除け地のようです

東側の空き地は「向こう両国」と呼ばれ
見世物小屋や食べ物屋の屋台が軒を連ねていました

旧両国橋・広小路跡 説明板 両国橋東詰

江戸の町
旧両国橋・広小路跡 [22]

 旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年(一六五九)十二月。明暦三年(一六五七)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
 橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
 寛保二年(一七四二)の調査では一日に二万人以上が往来したとされています。
   墨田区


両国橋 東詰

現在の橋の東詰には
江戸末期「獣肉を食わせてくれる」と
江戸名物店の一つに数えられた
「ももんじゃ」があります



両国広小路
両国広小路 両国橋西詰 夕





撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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浅草見附跡と柳橋の路地

記事 NO.7761    彩2021 路地を歩く

2021年11月7日訪問
柳橋-浅草橋(東京都)

柳橋界隈
江戸の粋を感じる街

柳橋から浅草橋を撮る 神田川

奥に見える青い橋が浅草御門のあった浅草橋

旧町名由来案内 旧浅草橋 台東区

浅草橋のたもとには
「旧町名由来案内」と「浅草見附跡碑」があります

浅草見附跡碑

明暦3年(1657)の明暦の大火の時
小伝馬町牢奉行石出帯刀は 囚人達を一時釈放しましたが
浅草橋御門の番人は脱走囚と間違え門を締めました

このため一般市民も避難路を絶たれ
ここだけで2万人の溺死者 焼死者をだしたといわれています

浅草見附跡碑 (裏)

浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永十三年に設営された。
慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。
これに因んで、昭和九年六月一日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。
 昭和三十一年十月一日
 開都五百年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる。


三浦屋

浅草橋より神田川の上流を眺めると
江戸時代より続く老舗の船宿「三浦屋」が見えます


それでは 柳橋の路地に行ってみます

旧町名由来案内 旧浅草柳橋 台東区

ここにも江戸時代より続く老舗の「美家古鮨本店」があります

美家古鮨本店 柳橋

「美家古鮨本店」の角には力石があります

柳橋路地

そこから30mほど南に行ったところに
外階段のあるビルがあり

柳橋路地

階段の下を見てみると

柳橋路地 力石

なんと 黄色に塗られた石が!

柳橋路地 力石

形は力石のようです

柳橋路地 力石

文字の刻まれた跡もあるようにみえます

謎の石です

柳橋路地

また 南にちょっと歩くと

柳橋路地 謎の石

黄色に塗られた石
何のために置かれているのでしょう?

柳橋路地 謎の石

これまた謎の石


花街で力自慢をした男たちがいたのでしょうか?






柳橋~浅草橋
日本橋北神田浜町絵図部分 柳橋 浅草御門




撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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