上田原合戦 雨宮刑部の墓
記事 NO.7379 彩2020 史跡紹介
2020年8月16日訪問
上田原古戦場 (上田市)
雨宮刑部正利
上田原の戦いにて討死

観音寺の墓地外れにある
村上軍の将 雨宮刑部墓



上田原の合戦では両軍共に
重臣級の家臣がたくさん討ち死にしています
雨宮刑部の墓

長野県 上田市 上田原

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年8月16日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2020年8月16日訪問
上田原古戦場 (上田市)
雨宮刑部正利
上田原の戦いにて討死

観音寺の墓地外れにある
村上軍の将 雨宮刑部墓



上田原合戦のあらまし
天文十七年(1548)二月甲斐の武田晴信(後の信玄)は、大軍を率いて、小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え討ち、同月十四日この地で激しい合戦が行われた。この戦いで武田軍は破れ、重臣板垣信方・甘利虎泰・才間河内守等討死 晴信も傷を負ったが、村上軍も雨宮刑部・屋代源吾・小島権兵衛等が討死し、決定的な勝利を得ることができなかった。
ここから南方に望む倉升山一帯には、物見山・合図山・兵糧山・御陣ヶ入・御陣ヶ原・鉦ヶ窪・味方原等武田軍の布陣を示す地名があり、転じて北西には村上軍が陣をすえたと伝えられる天白山があり、下って物見塚・産川崖上には三兵・村上の旗を立てたと言う旗塚の跡等あり、共に今も小字名として残されている。
上田原の合戦では両軍共に
重臣級の家臣がたくさん討ち死にしています
雨宮刑部の墓

長野県 上田市 上田原

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年8月16日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010