渋沢平九郎の墓
記事 NO.7428 彩2020 越生町 渋沢平九郎のお墓
2020年10月21日訪問
全洞院 (越生町)
澁澤平九郎之墓
明治7年建立

最上段 歴代住職墓地の下
黒山に散った悲運の英傑

慶応4年(1868年) 黒山で自決した渋沢平九郎の墓
今でも訪れる人が跡を絶ちません

墓石は渋沢栄一の命によって
明治7年(1874年)に建てられたものです



渋沢栄一も眺めた
墓地最上段からの眺め

明治45年4月14日
平九郎の墓参に訪れた渋沢栄一一行


俳人松野自得の句碑
「白梅の ある夜飛びゆき 星となる」
関連記事: 澁澤平九郎埋首之碑 渋沢平九郎最期の地
岩松山全洞院

埼玉県 入間郡越生町 黒山734

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年10月21日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2020年10月21日訪問
全洞院 (越生町)
澁澤平九郎之墓
明治7年建立

最上段 歴代住職墓地の下
黒山に散った悲運の英傑

慶応4年(1868年) 黒山で自決した渋沢平九郎の墓
今でも訪れる人が跡を絶ちません

墓石は渋沢栄一の命によって
明治7年(1874年)に建てられたものです

澁澤平九郎之墓(渋沢平九郎の墓)
明治七年(一八七四)年十二月、渋沢平九郎の骸は、法恩寺に埋葬されていた首とともに、東京谷中の渋沢家墓地に改葬された。その後、この墓石が建てられた。
碑銘は次の通りである。(右)「明治元歳五月三日為所事戦 不克屠腹死時貮拾貮」、(左)「有志建之」、(裏)「発起人 東京府下 大村昇 熊谷義一 芝崎義行 金子一郎 黒岩村 横田佐平 世話人 大久保村 岡野治三郎 黒山村 浅見四郎」
渋沢栄一は、明治三十二年六月二十五日と四十五年四月十四日の二度、墓参に訪れている。
平成三十一年三月 越生町教育委員会


渋沢栄一も眺めた
墓地最上段からの眺め

明治45年4月14日
平九郎の墓参に訪れた渋沢栄一一行

全洞院
岩松山全洞院は龍ヶ谷の曹洞宗龍穏寺の末寺で、開山は龍穏寺六世喜州善欣、第四十四世洞嶽石瑞の中興と伝わる。当地黒山は中世以来、修験の先達山本坊の勢力下にあった。「全東院」「善東院」と書かれた例もあり、元々は山本坊の本坊、熊野神社の東に開かれた修験寺院であったと推定される。
境内墓地には渋沢平九郎の墓がある。平九郎は飯能戦争を戦った旧幕府軍の振武軍の参謀で、慶応四年(一八六八)五月二十三日、敗走途中に官軍斥候隊と遭遇し孤軍奮闘後、自刃した。ここからほど近い顔振川岸に、彼が座して割腹した「自刃岩」がある。首は刎ねられ今市(現越生市街地)に晒され、骸は全洞院に葬られた。住職は白木位牌に「大道即了居士 俗名知らず、江戸のお方に候、黒山村にて討死」と記した。村人たちは勇壮な最期を遂げた青年を「脱走様」と呼び、命日には空腹を思いやって、墓前にしゃもじを供えて弔った。村人たちは勇壮な最期を遂げた青年を「脱走様」と呼び、命日には空腹を思いやって、墓前にしゃもじを供えて弔った。
渋沢平九郎は旧名尾高、諱は昌忠、榛沢郡下手計村(現深谷市)出身で、渋沢栄一の妻千代の弟である。栄一が渡欧する際に見立養子となり渋沢姓を名乗っていた。享年二十二歳。
なお、本堂の前には、一時当寺の住職を勤めていた、俳人松野自得の「白梅のある夜飛びゆき星となる」の句碑がある。
越生町教育委員会

俳人松野自得の句碑
「白梅の ある夜飛びゆき 星となる」
関連記事: 澁澤平九郎埋首之碑 渋沢平九郎最期の地
岩松山全洞院

埼玉県 入間郡越生町 黒山734

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年10月21日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010