先妣渋沢氏招魂碑
記事 NO.7464 彩2020 渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑
2020年12月訪問
渋沢栄一の生地 (深谷市)
【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。
先妣渋沢氏招魂碑
亡き母を敬慕する栄一翁の心情
〔裏面〕
明治十六年癸未十一月七日 渋沢栄一建
中の家の前にある 渋沢家墓地
左:栄一母(えい)の墓 右:栄一父(晩香)の墓
渋沢栄一生家 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
埼玉県 深谷市 血洗島247-1
(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年12月
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2020年12月訪問
渋沢栄一の生地 (深谷市)
【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。
先妣渋沢氏招魂碑
亡き母を敬慕する栄一翁の心情
先妣渋沢氏招魂碑
不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
広群鶴刻
〔裏面〕
明治十六年癸未十一月七日 渋沢栄一建
【解説】
この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。
【大意】
えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。
中の家の前にある 渋沢家墓地
左:栄一母(えい)の墓 右:栄一父(晩香)の墓
渋沢栄一生家 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
埼玉県 深谷市 血洗島247-1
(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年12月
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
日本再発見
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010