岡部六弥太忠澄の墓
記事 NO.7512 彩2021 忠澄は猪俣党の出身
2020年12月1日訪問
岡部六弥太忠澄の墓 (深谷市)
岡部六弥太忠澄公御廟
名将平忠度を討った場面は平家物語にも登場

普済寺の北にある岡部氏の墓地には 忠澄のほか
夫人の玉ノ井 父行忠の五輪塔があります




五輪塔が6基並んでいます
このうち最も大きいものが忠澄のものとされています

忠澄の五輪塔 その右が父行忠

夫人玉ノ井の墓

岡部六弥太忠澄の墓とみられる五輪塔

岡部六弥太忠澄公史跡保存費寄附者芳名

南にある寄附者の碑には
渋沢栄一の名前もあります

岡部六弥太忠澄の墓

埼玉県 深谷市 普済寺962

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年12月1日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
埼玉散歩 深谷の史跡を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

2020年12月1日訪問
岡部六弥太忠澄の墓 (深谷市)
岡部六弥太忠澄公御廟
名将平忠度を討った場面は平家物語にも登場

普済寺の北にある岡部氏の墓地には 忠澄のほか
夫人の玉ノ井 父行忠の五輪塔があります



岡部六弥太忠澄の墓
岡部六弥太忠澄の墓岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範(いのまたやへえときのり)の孫、六太夫忠綱(ろくたゆうただつな)が榛沢郡岡部に居住し岡部氏を称した。
忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語 源平盛衰記に書かれており、特に待賢門(たいけんもん)の戦いでは、熊谷次郎直実、斉藤別当実盛、猪俣小平六など源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没落により岡部にいたが、治承四(一一八〇)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曾義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では、平氏の名将平忠度(ただのり)を討ち一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヵ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の譜代の家人三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、向かって右側が父行忠(ゆきただ)の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。
平成三年三月 埼玉県 岡部町

五輪塔が6基並んでいます
このうち最も大きいものが忠澄のものとされています

忠澄の五輪塔 その右が父行忠

夫人玉ノ井の墓

岡部六弥太忠澄の墓とみられる五輪塔

岡部六弥太忠澄公史跡保存費寄附者芳名

南にある寄附者の碑には
渋沢栄一の名前もあります

岡部六弥太忠澄の墓

埼玉県 深谷市 普済寺962

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2020年12月1日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
埼玉散歩 深谷の史跡を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

