渋沢栄一宅跡(江東区)
記事 NO.7537 彩2021 澁澤シティプレイス永代
2021年2月20日訪問
渋沢栄一宅跡地 (東京都江東区)
渋沢栄一宅跡
福住稲荷神社

明治9年(1876年)渋沢栄一が深川福住町に購入した本邸の跡


-解説板より-

ここは 澁澤倉庫発祥の地でもあります


福住稲荷神社には
渋沢倉庫の社章が刻まれている力石があるので行ってみましょう

この門を開けて入ります

有形文化財の石造鳥居をくぐると

力石が並んでいます

「
」 「鳳」 「さし石」 の力石

「赤石」 「朱雀」のさし石

有形民俗文化財 力石 10個
1つずつ写真に撮りましたのでご覧ください





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副屋の屋根の『ちぎり』
北区飛鳥山にある青淵文庫
福住稲荷神社(渋沢栄一宅跡地)

東京都 江東区 永代2-37-28

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年2月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
東京散歩 深川散歩 渋沢栄一を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

2021年2月20日訪問
渋沢栄一宅跡地 (東京都江東区)
渋沢栄一宅跡
福住稲荷神社

明治9年(1876年)渋沢栄一が深川福住町に購入した本邸の跡

江東区登録史跡 渋沢栄一宅跡
渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
平成21年3月 江東区教育委員会

-解説板より-

ここは 澁澤倉庫発祥の地でもあります


澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・
保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」
日本資本主義の生みの親である, 渋澤榮一は、右の信念のもと、
明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は, 澁澤倉庫発祥の地である。
渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の
他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が(ちぎり・りうご)であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として
組織を改めたが、このの記章は、現在も
「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。
澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
平成十六年四月吉日 澁澤倉庫株式会社
福住稲荷神社には
渋沢倉庫の社章が刻まれている力石があるので行ってみましょう

この門を開けて入ります

有形文化財の石造鳥居をくぐると

力石が並んでいます

「


「赤石」 「朱雀」のさし石

有形民俗文化財 力石 10個
1つずつ写真に撮りましたのでご覧ください










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福住稲荷神社(渋沢栄一宅跡地)

東京都 江東区 永代2-37-28

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年2月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED
東京散歩 深川散歩 渋沢栄一を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010

