谷中霊園桜通りと天王寺五重塔跡
記事 NO.7572 彩2021 谷中で花散歩歴史散歩
2021年3月23日訪問
谷中霊園さくら通り(台東区)
桜通り
墓地の桜並木

上野の桜めぐりもそろそろ終わりにしたいと思います
上野戦争で敗れた彰義隊も
この桜通りを走って道灌山方面に
逃げたと思われます

墓地の片隅に
「おかの はかみち」と
刻まれた石標があります
谷中の墓地が整備されたときのものでしょうか?
「桜通り」を「丘の墓道」とよんでいたようです
その桜通りにある
五重塔跡の桜も見事です

以前は ここに美しい五重塔があったのです


幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった
天王寺の五重塔跡です

天王寺(旧名・感応寺)の五重塔は
江戸時代の正保元年(1644)に創建されたと伝えられています
明和9年(1772)の大火で寺の諸堂とともに焼失しましたが
寛政3年(1791)に再建されました

谷中のランドマークになっていましたが
昭和32年7月6日の放火により消失しました
NHKアーカイブス
谷中の五重塔焼ける

この近くには
徳川慶喜公や渋沢栄一翁などの
墓地もあります
そうそう 彰義隊の初代頭取は
渋沢喜作でしたね
天王寺五重塔跡

撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

東京散歩 コロナ禍を歩く 幕末明治維新を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年3月23日訪問
谷中霊園さくら通り(台東区)
桜通り
墓地の桜並木

上野の桜めぐりもそろそろ終わりにしたいと思います
上野戦争で敗れた彰義隊も
この桜通りを走って道灌山方面に
逃げたと思われます

墓地の片隅に
「おかの はかみち」と
刻まれた石標があります
谷中の墓地が整備されたときのものでしょうか?
「桜通り」を「丘の墓道」とよんでいたようです
その桜通りにある
五重塔跡の桜も見事です

以前は ここに美しい五重塔があったのです

東京都指定史跡天王寺五重塔跡
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長耀山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、百三十年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一丈ニ尺八寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月9日放火により焼失した。 現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方ニ尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治3年(1870)の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。
平成5年(1993)3月31日建設 東京都教育委員会

幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった
天王寺の五重塔跡です

天王寺(旧名・感応寺)の五重塔は
江戸時代の正保元年(1644)に創建されたと伝えられています
明和9年(1772)の大火で寺の諸堂とともに焼失しましたが
寛政3年(1791)に再建されました

谷中のランドマークになっていましたが
昭和32年7月6日の放火により消失しました
NHKアーカイブス
谷中の五重塔焼ける

この近くには
徳川慶喜公や渋沢栄一翁などの
墓地もあります
そうそう 彰義隊の初代頭取は
渋沢喜作でしたね
天王寺五重塔跡

撮影:2021年3月23日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED


東京散歩 コロナ禍を歩く 幕末明治維新を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010