福祉事業の原点は渋沢栄一にあった!
記事 NO.7580 彩2021 現在の福祉事業の原点
2021年3月20日訪問
東京都健康長寿医療センター (板橋区)
養育院長渋沢栄一銅像
銅像の原型は小倉右一郎が制作

渋沢栄一は35歳の時
孤児 老人 障害者を養うための施設である
東京市養育院を設立しました

92歳の天寿をまっとうするまで
50年以上にわたり院長を務めました

子爵渋沢栄一像の脇には
養育院本院の碑があります

渋沢栄一の筆による 「養育院 本院」

銅像は大正14年(1924)に制作され
栄一本人も出席して除幕式が行われました


養育院中央記念広場には
乙女のブロンズ像「よろこび」があります

元は噴水のある池の中にあったようです

養育院は時代の求めに応えて
医療・福祉事業を展開しました
精神病・ハンセン病・結核・児童福祉・高齢者福祉対策などの
さまざまな専門施設が養育院から生まれました
その歴史は 日本の近代医療・福祉の
源流といってもよいでしょう
養育院は現在
高齢者のための医療や研究を行う
東京都健康長寿医療センターとなっています
東京都健康長寿医療センター

東京都 板橋区 栄町35-2

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年3月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED

歴史散歩 幕末明治維新 渋沢栄一を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年3月20日訪問
東京都健康長寿医療センター (板橋区)
養育院長渋沢栄一銅像
銅像の原型は小倉右一郎が制作

渋沢栄一は35歳の時
孤児 老人 障害者を養うための施設である
東京市養育院を設立しました

92歳の天寿をまっとうするまで
50年以上にわたり院長を務めました

子爵渋沢栄一像の脇には
養育院本院の碑があります

養育院本院の碑
養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景にはロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、養育院本院は上野(現東京芸大)、神田、本所、大塚と市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置の原資は営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信により創設された七分積金が明治新政府に引き継がれたもの)である。
養育院の歴史は渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行なったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業に関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次大戦後は、児童の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
平成十一年十二月、東京都議会において、養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じたが、養育院が行ってきた事業は形を変えて現在も引き継がれている。
養育院に関連する碑は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺(リョウゴンジ)、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園にある。
なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
平成二十五(二千十三)年三月 養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員などの篤志によって建てられました。
地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター
渋沢栄一の筆による 「養育院 本院」

銅像は大正14年(1924)に制作され
栄一本人も出席して除幕式が行われました


旧養育院長渋沢栄一銅像
日本の福祉・医療の原点である「養育院」は明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を越えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
帝展・文展の審査員も務めた彫刻家・小倉右一郎の制作で、高さ16 尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で作られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないまま昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至っています。
大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。昭和26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
平成26年12月 板橋区教育委員会
養育院中央記念広場には
乙女のブロンズ像「よろこび」があります

元は噴水のある池の中にあったようです

養育院中央記念広場と「よろこび」
この広場は、養育院初代院長、渋沢英一翁の業績を記念し、あわせて院内のおとしよりや、地域並びに広く都民の方々の"いこい"と"ふれあい"の場として設けられたものです。
池の中にあるブロンズ像「よろこび」は、昭和五十七年度東京都「文化のデザイン」事業の一環として、この広場にふさわしい、やすらぎとうるおいを与える目的で制作されたものです。
「よろこび」の制作は、小金丸幾久氏の手になるもので、清純な乙女の姿は、あふれでる噴水とあいまって、春の息吹と健康でやすらかな生活への願いを表現しています。
この「よろこび」が、初代院長像とともに広場のシンボルとして、多くの方々に親しまれることを願うものです。
昭和五十八年三月
養育院は時代の求めに応えて
医療・福祉事業を展開しました
精神病・ハンセン病・結核・児童福祉・高齢者福祉対策などの
さまざまな専門施設が養育院から生まれました
その歴史は 日本の近代医療・福祉の
源流といってもよいでしょう
養育院は現在
高齢者のための医療や研究を行う
東京都健康長寿医療センターとなっています
東京都健康長寿医療センター

東京都 板橋区 栄町35-2

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年3月20日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
レンズ:ニコン-AF-NIKKOR 18-140mm
1:3.5-5.6 G ED


歴史散歩 幕末明治維新 渋沢栄一を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010