白石と力石
記事 NO.7618 彩2021 野牛の力石
2021年5月12日訪問
野牛久伊豆神社(白岡市)
野牛久伊豆神社の白石と力石
3つの力石

ここは野牛の久伊豆神社
野牛村と新井白石は切っても切り離せません

朝鮮通信使奉納扁額
▽力石が写っています

△どこに力石があるか探してみてください
力石には
「三十二メ」の文字が確認できます

旗立石の脇にあります
他にも境内には
▽力石があります わかりますか?

木の根元に

「奉納力石三十二メ目」の力石
「野牛村」の文字も確認できます
碑の後ろにも力石があります

文字が刻まれていますね

「奉納力石二十三メ目」の文字が確認できます
「奉納」という文字が刻まれているので
とても大切な力石でしょう
社殿前に奉納された力石だと思われます
いったい いつ誰がこんなところに移動させたのでしょう?
野牛久伊豆神社

埼玉県 白岡市 野牛652

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月12日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉力石散歩 久喜白岡を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年5月12日訪問
野牛久伊豆神社(白岡市)
3つの力石

ここは野牛の久伊豆神社
野牛村と新井白石は切っても切り離せません

野牛久伊豆神社と新井白石
野牛久伊豆神社の創建は不詳であるが、近世以前、野牛村は篠津村や柴山村などとともに「騎西領」に属していたため、 その総鎮守である騎西町の玉敷神社(=久伊豆大明神)を勧請(神を分霊してくること)し、村の鎮守として祀ったものと思われる。祭神は大己貴命である。また本殿右側には稲荷社など数社が合祀されている。
本殿正面の扁額は、江戸時代の儒学者新井白石(一六五七~一七二五)が奉納したもので、朝鮮通信使の李礥(号は東郭)が、六代将軍徳川家宣の将軍宣下の式典(一七一一)に来日した際、白石のために書したものと伝えられる。
野牛村は宝永六年(一七〇九)に、新井白石の領地となった。白石は領民の訴えに応じ、低湿だった当地に排水路を掘らせ、一帯を良田にしたという。この排水路は「白石堀」、「殿様堀」などとよばれ、現在は神社左側の道路歩道下を流れている。またこの付近に、飢饉に備えて鄉倉(貯蔵庫)を建てさせたという。そのほか当地には、白石の堅実で誠意ある領民支配を伝える話が残っている。
平成十二年二月 白岡町教育委員会

朝鮮通信使奉納扁額
▽力石が写っています

△どこに力石があるか探してみてください
力石には
「三十二メ」の文字が確認できます

旗立石の脇にあります
他にも境内には
▽力石があります わかりますか?

木の根元に

「奉納力石三十二メ目」の力石
「野牛村」の文字も確認できます
碑の後ろにも力石があります

文字が刻まれていますね

「奉納力石二十三メ目」の文字が確認できます
「奉納」という文字が刻まれているので
とても大切な力石でしょう
社殿前に奉納された力石だと思われます
いったい いつ誰がこんなところに移動させたのでしょう?
野牛久伊豆神社

埼玉県 白岡市 野牛652

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月12日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉力石散歩 久喜白岡を歩く
(C)heihei's studio 2010
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