瓦葺掛樋跡(上尾市)
記事 NO.7628 彩2021 見沼代用水みどころ
2021年5月25日訪問
瓦葺掛樋跡(上尾市)
瓦葺掛樋跡
見沼代用水路の重要構造物

明治時代の遺構が残る貴重な文化財です

煉瓦は渋沢栄一がかかわった
日本煉瓦製造株式会社製です


昨日の復習です
掛樋(かけどい)とは水を導く水路 樋をかけて水を引くしかけです
ここで見沼代用水路と綾瀬川が立体交差し
見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分岐します

下に流れているのが綾瀬川

江戸期から昭和初期にかけて
見沼代用水は綾瀬川の上を流れていました

煉瓦が当時の様子を伝えています
煉瓦数は約25万個
現在は綾瀬川の下を流れています


△写真をくらべてみてくださ▽

満水時の鉄製掛樋
(瓦葺掛樋跡 説明板より)
△明治後期から昭和初期の様子です
綾瀬川掛樋図

武蔵名所図
(国立国会図書館ウェブサイトより)
△江戸期の様子が詳しく描かれています
木製の掛樋の中には船が描かれ
見沼代用水が輸送ルートであったことも分かります
瓦葺掛樋跡

埼玉県 上尾市 瓦葺286-2

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉歴史散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年5月25日訪問
瓦葺掛樋跡(上尾市)
見沼代用水路の重要構造物

明治時代の遺構が残る貴重な文化財です

煉瓦は渋沢栄一がかかわった
日本煉瓦製造株式会社製です


上尾市登録文化財 記念物(史跡)瓦葺掛樋跡
上尾市大字瓦葺二八六-二 平成二七年一一月一七日登録
「瓦葺掛樋」は、見沼代用水路の重要構造物のひとつで、瓦葺の地で、見沼代用水路と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられていたものである。見沼代用水は享保一三(1728)年に、「見沼溜井(現・さいたま市)」と呼ばれる溜池が新田開発で干拓されたことに伴い、代替の農業用水を利根川から導水するため開削された。当初は水路の両側に盛り土をして堤を築き木製の樋を掛ける構造であったが、その後、すべて板囲いに改められて、以後この形で明治期まで続いた。洪水などによる被害がなくとも大量の通水があるため、度々漏水腐食が生じ、毎年のように修理が行われ十年以内の年限で架替も必要であったとされる。
現在残されている煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四一(1908)年に樋が鉄製に改造された際の構造物の一部である。
見沼代用水の流路上に存在した掛樋の多くが江戸時代の間に川などの下をくぐる伏越へと変えられた中、瓦葺掛樋はその後も長く用いられ続けた。しかし、昭和三六(1961)年に長年の流水による水路の変形や下流での流水不足などのため廃止され、綾瀬川の下をくぐる伏越に変更され現在に至っている。昭和五六(1981)年立合橋の再建に伴いレンガ積みの一部が取り壊されたが、見沼代用水の重要構造物に位置付けられているもののうちで唯一、明治時代の遺構が残る貴重な文化財である。
なお、現存す煉瓦は上敷免村(現・深谷市)の日本煉瓦製造株式会社で製造されたものであり、「上敷免」の極印が刻まれたものも存在する。
昨日の復習です
掛樋(かけどい)とは水を導く水路 樋をかけて水を引くしかけです
ここで見沼代用水路と綾瀬川が立体交差し
見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分岐します

下に流れているのが綾瀬川

江戸期から昭和初期にかけて
見沼代用水は綾瀬川の上を流れていました

煉瓦が当時の様子を伝えています
煉瓦数は約25万個
現在は綾瀬川の下を流れています


△写真をくらべてみてくださ▽

満水時の鉄製掛樋
(瓦葺掛樋跡 説明板より)
△明治後期から昭和初期の様子です
綾瀬川掛樋図

武蔵名所図
(国立国会図書館ウェブサイトより)
△江戸期の様子が詳しく描かれています
木製の掛樋の中には船が描かれ
見沼代用水が輸送ルートであったことも分かります
瓦葺掛樋跡

埼玉県 上尾市 瓦葺286-2

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年5月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉歴史散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010