伴門五郎之碑
記事 NO.7632 彩2021 彰義隊第一等の英傑
2021年3月25日訪問
三学院(蕨市)
伴門五郎之碑
彰義隊の主唱者 伴 門五郎

伴門五郎之碑

徳川恒孝 書


4代蕨市長金子吉衛氏が
門五郎の甥の子2代蕨市長岡田徳輔氏との縁で
建てたものです
土台の石は上野寛永寺にあった庭石です

伴門五郎は
上野戦争以来生死が不明になっています
山岡鉄舟は 八方手を尽くして探しましたが
見つからず自ら谷中に建立した全生庵に
明治20年「伴氏徳君墓表」を建てました
金亀山極楽寺三學院

埼玉県 蕨市 北町3-2-4

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年3月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉歴史散歩 蕨を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
関連記事:彰義隊の墓
2021年3月25日訪問
三学院(蕨市)
彰義隊の主唱者 伴 門五郎

伴門五郎之碑

徳川恒孝 書

伴門五郎之碑
伴 門五郎先生は彰義隊の主唱者でありまた参謀格でもあった 先生は天保十年四月八日当時蕨宿の名主岡田正広通称平左衛門の三男として生まれ後に伴家を継ぎ十四歳で幕府に出仕し御徒から陸軍調役に昇進した
十五代将軍徳川慶喜公は天下の形勢を察知し大政を奉還した たまたま鳥羽伏見の戦いで薩長の軍に敗れ朝敵の汚名をこうむることとなった 先生は君公のこの汚名をすすごうと同志と計って彰義隊を結成し上野の山に奮戦力闘したがそのかいもなく慶応四年五月十五日に三十歳を一期ととして玉砕された
先生の赤誠の志をしのび明治二十年旧友や遺族が墓碑を谷中全生庵に建てた 今また明治百年に当たり私たちは郷土が生んだ忠誠の士伴先生を景仰する情の切なものがある
ここに本会は往時を追懐し伴 門五郎先生顕彰の碑を建てるゆえんである
昭和四十三年五月十五日 蕨市郷土史研究会

4代蕨市長金子吉衛氏が
門五郎の甥の子2代蕨市長岡田徳輔氏との縁で
建てたものです
土台の石は上野寛永寺にあった庭石です

伴門五郎は
上野戦争以来生死が不明になっています
山岡鉄舟は 八方手を尽くして探しましたが
見つからず自ら谷中に建立した全生庵に
明治20年「伴氏徳君墓表」を建てました
金亀山極楽寺三學院

埼玉県 蕨市 北町3-2-4

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年3月25日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


埼玉歴史散歩 蕨を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
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