隅田川テラスを歩く7
記事 NO.7749 彩2021 浅草を歩く7
2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)
待乳山から向島へ
お江戸散歩 浅草編5時間目

東都名所 真土山之図
(国立国会図書館ウェブサイトより)
待乳山の天狗坂が描かれています

脚の不自由な方は
天狗坂を登らなくても

乗車無料 桜レール
モノレールで山頂へ行けます

待乳山は 江戸時代は東都随一の眺望の名所と称され
浮世絵や詩歌の題材にもなっています

天狗坂は 昔は大木がうっそうと生い茂り
坂を下りたところに 竹屋の渡しがありました
山頂まで行って隅田川とスカイツリーを眺め
天狗坂を下りて今戸神社へ

今戸神社
「今戸焼発祥の地」 「沖田総司終焉の地」の碑があります

新選組 沖田総司最期の地は千駄ヶ谷という説が有力です

今戸生まれの 招き猫です

招き猫がたくさんいます

可愛いですね

桜橋を渡って向島へ行ってみましょう

桜橋はX字型に架けられた車を通さない橋です
かつて「竹屋の渡し」が行き来していたところです

秋空に映えるスカイツリー
橋を渡り左に折れると 常夜燈が見えてきます



堤を下りたところに
言問団子のお店があります

小豆あん 白あん 青梅をかたどった味噌あんの
三色団子は人気です

道路の反対側には
榎本武揚 篆額の「墨堤植桜の碑」があります


墨堤植桜の碑 (裏)

近くには有名な桜もち本舗
「長命寺桜もち 山本や」があります




長命寺佐久良餅

桜の葉3枚でもちを包んでいます
お店では桜葉をはずして食べることを勧めています
桜葉は香り付けと乾燥を防ぐ為についているとのことです
包み紙と箱の桜の花の絵が素敵です

「桜もち」の店の前 首都高下の
「石庭の隅田川」に珍しい力石があります

-刻字-
東男の大石持 國技を偲ぶ 江戸趣味力遊び
昭和二十□年 秀太郎書

この石も
2016年10月にS氏がみつけたものです



いや~ 疲れた~ 2万歩超えました (次回は三囲神社です)
隅田川テラス 今戸1丁目~向島2丁目

東京都 台東区
撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京を歩く

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年10月24日訪問
隅田川テラス(東京都)
待乳山から向島へ
お江戸散歩 浅草編5時間目

東都名所 真土山之図
(国立国会図書館ウェブサイトより)
待乳山の天狗坂が描かれています

脚の不自由な方は
天狗坂を登らなくても

乗車無料 桜レール
モノレールで山頂へ行けます

待乳山は 江戸時代は東都随一の眺望の名所と称され
浮世絵や詩歌の題材にもなっています

天狗坂は 昔は大木がうっそうと生い茂り
坂を下りたところに 竹屋の渡しがありました
山頂まで行って隅田川とスカイツリーを眺め
天狗坂を下りて今戸神社へ

今戸神社
「今戸焼発祥の地」 「沖田総司終焉の地」の碑があります

新選組 沖田総司最期の地は千駄ヶ谷という説が有力です

今戸生まれの 招き猫です

招き猫がたくさんいます

可愛いですね

桜橋を渡って向島へ行ってみましょう

桜橋はX字型に架けられた車を通さない橋です
かつて「竹屋の渡し」が行き来していたところです

秋空に映えるスカイツリー
橋を渡り左に折れると 常夜燈が見えてきます


常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴
この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。
この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。

堤を下りたところに
言問団子のお店があります

小豆あん 白あん 青梅をかたどった味噌あんの
三色団子は人気です

言問団子と郡司大尉
江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。
道路の反対側には
榎本武揚 篆額の「墨堤植桜の碑」があります


墨堤植桜の碑
所在 墨田区向島五丁目一番 墨田公園
この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保二年(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、享保十一年には、桜、桃、柳各百五十本を植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢、朝川黙翁、中山ト鄰が百五十本、天保二年(一八三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が百五十本、安政元年(一八五四)に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治二十年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
平成二年三月 墨田区
墨堤植桜の碑 (裏)

近くには有名な桜もち本舗
「長命寺桜もち 山本や」があります



正岡子規仮寓の地
向じま 花さくころに 来る人の
ひまなく物を 思いける哉
(「無何有洲七草集」女郎花の巻『寄寓隅田川名所恋』)
近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヵ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次の句を詠んでいる。
花の香を 若葉にこめて かぐわしき
桜の餅 家つとにせよ
明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も
から山の 風すさふなり 古さとの
隅田の櫻 今か散るらん
と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。
子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴声は悲壮で、「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。

長命寺佐久良餅

桜の葉3枚でもちを包んでいます
お店では桜葉をはずして食べることを勧めています
桜葉は香り付けと乾燥を防ぐ為についているとのことです
包み紙と箱の桜の花の絵が素敵です

「桜もち」の店の前 首都高下の
「石庭の隅田川」に珍しい力石があります

-刻字-
東男の大石持 國技を偲ぶ 江戸趣味力遊び
昭和二十□年 秀太郎書

この石も
2016年10月にS氏がみつけたものです



いや~ 疲れた~ 2万歩超えました (次回は三囲神社です)
隅田川テラス 今戸1丁目~向島2丁目

東京都 台東区
撮影:2021年10月24日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京を歩く


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010