二之橋のたもとには何がある?
記事 NO.7768 彩2021 両国歴史散歩
2021年11月7日訪問
竪川 二之橋(東京都)
小林一茶居住の地・軍鶏なべ屋「五鉄」
両国めぐりは続く

二之橋のたもとに「小林一茶居住の地」 があります


この相生町5丁目(現緑一丁目)の家は間借りではなく
小さいながらも一軒家であり
庭には梅や竹が植えられていて
垣根には夏になると朝顔が咲いていたといわれています
梅の季節 誰が訪ねて来ても欠けた茶碗でもてなすしかないと
貧乏で孤独なわび住まいを詠んでいます
「梅が香やどなたが来ても欠茶碗」文化元年(1804)

「小林一茶居住の地」の脇を竪川が流れ

「二之橋」が架かっています


道路を挟んだ反対側には
鬼平犯科帳に出てくる架空のお店ですが
軍鶏なべ屋「五鉄」の説明板があります

埼玉には架空のお店を実際に
つくってしまったところがあります

五鉄 -監修 玉ひで-
東北自動車道上り 羽生PAの鬼平江戸処です

当時を再現した特製の軍鶏鍋を食べることができます
「五鉄しゃも鍋定食」がおすすめメニューのようです
竪川 二之橋

東京都 墨田区 緑1・両国4

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京の史跡を歩く

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年11月7日訪問
竪川 二之橋(東京都)
小林一茶居住の地・軍鶏なべ屋「五鉄」
両国めぐりは続く

二之橋のたもとに「小林一茶居住の地」 があります

小林一茶居住の地
所在地 墨田区緑一丁目一番
江戸時代後期の俳人小林一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、信濃国水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。本名は小林信之、幼名は作太郎といいます。
三歳で母くにと死別し、八歳の時迎えた継母とは不和になり、一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。十五歳の時に江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみます。やがて葛飾派の溝口素丸や小林竹阿に師事し俳諧を学び、各地を巡歴しながら多くの俳人と交流し俳諧への理解を深めていきました。
一茶は文化元年(一八○四)十月、それまで住んでいた本所五ツ目大島(現江東区大島)から本所相生町五丁目(現緑一丁目一番の一部およぴ二・三番)の借家に移ります。家財道具が運び込まれた日に一茶は
寝始る其夜を竹の時雨哉 (『文化句帖より』)
という句を詠んでおり、居宅の周辺には竹が植わっていたことがうかがわれます。一茶は五年ほどこの地を拠点に活動しましたが、文化五年十二月に旅から帰ると、留守中に借家が他人に貸し出されてしまっていました。
行年を元の家なしと成りにけり (『文化五・六年句日記』より)
以後弟子や後援者の家を転々とし、文化十年に故郷に戻りました。晩年は妻と三男一女の死、度重なる病、住居の類焼などに悩まされながらも句を詠み続け、文政十年(一八二七)六十五歳で亡くなるまでの作品数は二万句に及びました。
主な著作に『父の終焉日記』『七番日記』『おらが春』などがあります。子供や小動物への慈愛に満ちた作品がよく知られていますが、自らの境遇、都市や農村の日常に生きる人々の姿、政治や社会に対する思いを平明な言葉で句に詠んでおり、当時の社会状況や日常生活の実情を今日に伝えるものともなっています。
平成二十五年三月 墨田区教育委員会

この相生町5丁目(現緑一丁目)の家は間借りではなく
小さいながらも一軒家であり
庭には梅や竹が植えられていて
垣根には夏になると朝顔が咲いていたといわれています
梅の季節 誰が訪ねて来ても欠けた茶碗でもてなすしかないと
貧乏で孤独なわび住まいを詠んでいます
「梅が香やどなたが来ても欠茶碗」文化元年(1804)

「小林一茶居住の地」の脇を竪川が流れ

「二之橋」が架かっています

江戸の町二之橋 [46]
万治二年(一六五九)、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。そのニツ目の橋で、長さ十間(十八m)、幅三間(五・四m)ほどありました。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「ニツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。
現在の橋は平成十年(一九九八)に架橋されたものです。

道路を挟んだ反対側には
鬼平犯科帳に出てくる架空のお店ですが
軍鶏なべ屋「五鉄」の説明板があります

鬼平情景軍鶏なべ屋「五鉄」 [45]
小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二つ目橋の角地で南側は堅川」とあるように、この辺りだと推定されます。
鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。
その名物である軍鶏 の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは夏の快楽であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。
埼玉には架空のお店を実際に
つくってしまったところがあります

五鉄 -監修 玉ひで-
東北自動車道上り 羽生PAの鬼平江戸処です

当時を再現した特製の軍鶏鍋を食べることができます
「五鉄しゃも鍋定食」がおすすめメニューのようです
竪川 二之橋

東京都 墨田区 緑1・両国4

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京の史跡を歩く


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010