都指定旧跡 吉良邸跡 (本所松坂町公園)
記事 NO.7769 彩2021 両国歴史散歩 忠臣蔵
2021年11月7日訪問
吉良邸跡(東京都)
都指定旧跡 吉良邸跡
赤穂浪士元禄義挙の地

両国小学校の少し西側に
なまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」があります

元禄15年(1702)12月14日
赤穂の四十七士が討ち入りしたところで
『忠臣蔵』で知られるところです

公園の入り口には
赤穂義士遺蹟吉良邸跡の碑が建っています

刃傷事件の後 鍜治橋から当地に移り住みました

吉良上野介義央公座像


吉良家上屋敷は広大で
東西73間(134m) 南北は34間(63m)あって
坪数2,550坪と記録されています

邸内にある松坂稲荷


御首級洗いの井戸

吉良家家臣二十士の碑

松坂稲荷脇の南西角には
もの凄いパワーを放つ謎の石があります
大石や 仇討ち語る 片隅で

石を撫で ぱっと消えるや 歯の痛み
この石の周りには物を置かず綺麗にして
丁重に保存した方がよいと思います



少し東に行ったところには 吉良邸正門跡があります


吉良邸跡 (本所松坂町公園)

東京都 墨田区 両国3-13-9

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京の史跡を歩く

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年11月7日訪問
吉良邸跡(東京都)
都指定旧跡 吉良邸跡
赤穂浪士元禄義挙の地

両国小学校の少し西側に
なまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」があります

元禄15年(1702)12月14日
赤穂の四十七士が討ち入りしたところで
『忠臣蔵』で知られるところです

公園の入り口には
赤穂義士遺蹟吉良邸跡の碑が建っています

刃傷事件の後 鍜治橋から当地に移り住みました

吉良上野介義央公座像

吉良上野介義央公座像建立の経緯
平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。
岡崎安宏氏の知人で横浜市在住の造形作家米山隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。
愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、一六九〇年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿、形についてはこれをモデルに、そのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。
吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。
据え付けた台座は御影石を使用する。
本像制作に当たって、両国三丁目町会、吉良邸跡保存会、東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十二年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。
また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現西尾市吉良町)が、吉良上野介公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。
平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。

吉良家上屋敷は広大で
東西73間(134m) 南北は34間(63m)あって
坪数2,550坪と記録されています

邸内にある松坂稲荷

本所松坂町公園由来
所在地 墨田区両国三丁目十三番九号
面積 九十七、五六平方メートル
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷杜などの遺蹟があリ当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。
墨田区

御首級洗いの井戸

吉良家家臣二十士の碑

松坂稲荷脇の南西角には
もの凄いパワーを放つ謎の石があります
大石や 仇討ち語る 片隅で

石を撫で ぱっと消えるや 歯の痛み
この石の周りには物を置かず綺麗にして
丁重に保存した方がよいと思います

忠臣蔵
Site of former residence of lord Kira吉良邸跡 [33]
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は二千五百五十坪(約八四〇〇平方㍍)だったとされています。
吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(一七〇一)三月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。
墨田区


少し東に行ったところには 吉良邸正門跡があります

忠臣蔵
Site of the main gate of lord KIra's former residence吉良邸正門跡
この辺りに吉良邸正門がありました。
元禄十五年(一七○二)十二月十四日、寅の刻(午前四時)の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固めたたため、飛び出すことも出来ず戦闘不能になったといわれています。
墨田区

吉良邸跡 (本所松坂町公園)

東京都 墨田区 両国3-13-9

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京の史跡を歩く


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010