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明暦大火横死者等供養塔・海難供養碑 (両国回向院)

記事 NO.7770    彩2021 両国歴史散歩

2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)

両国 回向院
明暦大火横死者等供養塔・海難供養碑

両国回向院

両国の発展を決定づけた回向院
近代的な独特の門構えです

両国回向院 説明板
江戸の町
Eko-in Temple
回向院 [15]

 明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曽有大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
   墨田区


両国回向院 第二次世界大戦前の回向院

第二次世界大戦前の回向院
本堂向かって左にある建物が旧国技館です

両国回向院 説明板2

諸宗山 回向院

 明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者十万八千余人を弔うために建立された

 本尊  阿弥陀如来 東京都重要文化財指定

安政大地震(一八五五年)の死者二万五千人余を初めとして
江戸府内の無縁佛、天災地変に因る死者も埋葬され
近くは大正十二年の関東大地震の死者10万余人の分骨も 納骨堂に安置されています

江戸時代の雰囲気を伝える 史跡記念碑墓地がある

 明暦三年  大火石塔
 安政二年  大地震石塔
 鼠小僧次郎吉墓
 水子塚(寛政五年)松平定信建立
 猫に小判の話  猫塚
 勧進相撲発祥の地記念 力塚
 呼び出  定火消墓  木遣塚
 諸動物供養塔
 竹本義太夫墓
 岩瀬京傳、 京山、 加藤千陰墓


本堂の東側には 鼠小僧や山東京伝などの
墓碑や供養塔がまとめられ 文化財の宝庫となっています

両国回向院 供養塔群
△写真右の供養塔が
明暦3年(1657)1月 江戸市中の繁華街を焼いた
明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして
入水者・牢死者・行路病死者・処刑者
その他の横死者に対する供養のために造立された
「明暦大火横死者等供養塔」です

両国回向院 石造明暦大火横死者等供養塔

石造明暦大火横死者等供養塔

回向院 石造明暦大火横死者等供養塔
東京都指定有形文化財(歴史資料)
石造明暦大火横死者等供養塔 一基

     所在地 墨田区両国二-八-一〇 回向院内
     指定  昭和四十五年八月三日
 明暦三年(一六五七)一月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。
 もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。
 総高三・〇五メートル、延宝三年(一六七五)頃建立された。願主は回向院第二世住持信誉貞存。
 昭和六十二年三月二十日建設 東京都教育委員会

石造明暦大火横死者等供養塔 石造物海難供養碑

供養塔の横には海難事故による溺死者を埋葬供養した
「石造物海難供養碑」の説明板があります

両国回向院 石造物海難供養碑説明板

(墨田区登録文化財)
石造物海難供養碑
所在地 墨田区両国二丁目八番十号 回向院

 回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができます。
 六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸時代の白子港は木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していました。

①「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔
 文化十年(一八一三)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政三年(一八五六)に再建。正面の名号は増上寺六十六世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。

②「溺死四十七人墓」
 明治二年(一八六九)、函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩(現熊本県)のお雇い蒸気船が上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没し二百六十余名が亡くなりました。そのうち、富岡文吉らが知る四十七名を供養するために建立しました。

③「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔
 文化十一年(一八一四)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現愛知県西尾市平坂町)二港に属する溺死者のために建立しました。名号は徳本の書です。台座部分には中村仏庵の撰書により、天明二年(一七八二)の大黒屋光太夫の一件から、文化十一年に至る海難小史が綴られています。

④「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」
 安政四年(一八五七)四月二十日に紀州大川浦(現和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗組員七名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現静岡県牧之原市)で溺死しました。彼らを供養するために、江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人たちが世話人となり建立しました。

⑤「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
 寛政元年(一七八九)、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑です。帆の正面には犠牲者七名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。

⑥勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔
 文政八年(一八二五)の伊豆神津島(現束京都神津島村)の溺死者のために建立されました。のちに、天保、安政の遭難者名を追刻しました。

   平成二十三年二月  墨田区教育委員会

5 勢州白子三州高濱船溺死一切精霊

⑤の「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
三河平坂の施主が建立した帆掛船型の供養碑です





両国回向院
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10
Qrcode両国回向院
(Mapion地図にアクセス)


撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

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テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

こんばんは!

回向院は魅力的な寺院ですね。

そもそも大相撲の始まりが、江戸の大火で被災した人々を救済するための

興行相撲が始まりだというのは驚きました。それだけ多くの人々を熱狂させ

支援へと繋がる人気があったのでしょうか。

回向院と言えば、鼠小僧治郎吉の墓石も面白く

ご利益を願う人々の手により削られた石が痛々しく思いました。(◎_◎;)

Re: No title

> torikeraさん

明暦の大火の犠牲者を埋葬供養のために建立した回向院は
江戸の歴史を現代に伝えています。

両国橋、回向院の建立によって 江戸の町(歴史)は大きく変わりました。

鼠小僧治郎吉の墓は有名です。
今でも石を削って持ち帰る人が後を絶ちませんね。

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