相撲関係石碑群〈力塚〉 /両国回向院
記事 NO.7771 彩2021 両国歴史散歩
2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)
力塚の石碑
相撲と回向院

石碑群の中では一番大きな石碑
「力塚」は徳川家達の揮毫です

歴代年寄を慰霊するために建てられました


裏面には年寄及び行司名が刻まれています


回向院相撲記

「昭和三十八年九月二十四日」

背面には「昭和十四年五月建立 出羽海梶之助」
碑文を昭和38年に改刻したようです

その他 相撲を筆の力でひろめた
相撲記者の慰霊碑があります
これら相撲関係石碑群の東側には旧国技館がありました





(説明板より) 上:開館当初(個人蔵)/下:関東大震災前(すみだ郷土文化資料館蔵)
大正6年の火災後大修理で大きく変えました。

相撲とは切っても切れない関係の回向院です
両国の相撲 いや日本の相撲の興隆は
回向院の境内から始まったといっても過言ではないでしょう
#両国 #回向院 #パワースポット
親方ちゃんねる【両国さんぽ】第二回・回向院
「親方ちゃんねる・両国さんぽ」と題し
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両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京の史跡を歩く

(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2021年11月7日訪問
両国回向院(東京都)
力塚の石碑
相撲と回向院

石碑群の中では一番大きな石碑
「力塚」は徳川家達の揮毫です

歴代年寄を慰霊するために建てられました

相撲関係石碑群〈力塚〉
所在 墨田区両国二丁目八番 回向院
墨田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保四年(一八三三)一○月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(一八八四)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして明治四二年に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
平成一一年三月 墨田区教育委員会

裏面には年寄及び行司名が刻まれています


相撲年寄名跡
正二位勲一等公爵徳川家達題字
先人ノ遺徳ヲ追慕シ弔祭ヲ絶タサルハ尊祖崇霊ノ美風ニシテ日本精神ノ真髄ナリ然ルニ力士行司ニシテ名声ヲ天下ニ馳セ斯道興隆ノ為ニ貢献シタル者モ時ニ名跡其ノ後ヲ缺クニ至レハ後世空シク無縁トナリ祭祀ノ典礼ヲ絶ツ憾ミナシトセス茲ニ大日本相撲協会ハ深ク之ヲ憂ヒ地ヲ回向院境内ニ相シ力塚ト称スル石塚ヲ建立シテ歴代相撲年寄ノ霊ヲ祀リ毎歳春秋長ニ祭祀ヲ営ミ大方ノ有志ト共ニ篤ク追薦ノ誠悃ヲ表シ以テ我邦唯一ノ国技タル相撲道ノ精神ヲ永遠ニ伝ヘムトスト云爾
昭和十一年一月
陸軍大将正三位勲一等功三級尾野実信
陸軍主計総監正四位勲一等功五級千葉郁治書
財団法人大日本相撲協会建之
回向院相撲記

「昭和三十八年九月二十四日」

背面には「昭和十四年五月建立 出羽海梶之助」
碑文を昭和38年に改刻したようです

回向院相撲記
江戸勧進相撲が記録で判明した最初の場所は貞享元年(一六八四年)深川八幡宮境内である
其後 新材木町杉森稲荷 浅草御蔵前八幡神社 芝神明社 本所回向院 市ヶ谷八幡宮 芝西久保八幡宮 市ヶ谷長龍寺 深川三十三間堂 本所一ッ目八幡宮 茅場町薬師 芝愛宕山 神田明神と転々したが天保四年十月(一八三三年)から明治四十二年六月(一九〇九年)に国技館が建設されるまで七十六年間に亘って回向院境内が本場所の開催地となっていた
其後昭和二十九年九月蔵前国技館寛政とともに財団法人日本相撲協会はこの地を去るに当り力塚は残して永く先人の徳を慕い且大相撲回向院時代を偲ぶため力塚修復祭祀に際し之を記す
昭和三十八年九月二十四日
財団法人 日本相撲協会
その他 相撲を筆の力でひろめた
相撲記者の慰霊碑があります
これら相撲関係石碑群の東側には旧国技館がありました


大相撲
Site of former Kokugikan Arena旧国技館跡 [16]
旧国技館は、天保四年(一八三三)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(一九〇九)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。
ドーム型屋根の洋風建築で、収容人員は一万三千人にでした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(一九八三)に解体されました。
左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
墨田区


旧国技館(大鉄傘)跡
所在地 墨田区両国二丁目8番
旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は、日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。
この建物は、大正6年(1917)の火災と同12年(1923)の関東大震災、そして昭和20年(1945)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和21年(1946)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなどの格闘技の試合会場として使用されました。また、昭和33年(1958)以降は、日本大学講堂として使用されました。
なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和60年(1985)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されています。
令和3年3月 墨田区教育委員会

(説明板より)
大正6年の火災後大修理で大きく変えました。

相撲とは切っても切れない関係の回向院です
両国の相撲 いや日本の相撲の興隆は
回向院の境内から始まったといっても過言ではないでしょう
#両国 #回向院 #パワースポット
親方ちゃんねる【両国さんぽ】第二回・回向院
「親方ちゃんねる・両国さんぽ」と題し
両国のお店や名所などを巡って紹介する新企画となります!
両国回向院

東京都 墨田区 両国2-8-10

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2021年11月7日
カメラ:ニコン-Nikon D7500
日本再発見 東京の史跡を歩く


(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010