森朴斎碑と墓(埼玉県上尾市)
記事 NO.7806 彩2022 森朴斎碑と墓
2022年1月13日訪問
平方観音堂(上尾市)
正覚寺(現観音堂)
明治6年廃寺

正覚寺は 明治6年廃寺となり
観音堂となっています

観音堂には森朴斎(もりぼくさい)碑と墓があることで知られています

朴斎は桑名の藩士で詩歌俳諧の道に長じ
平方近辺の子弟の教導に当たりました

朴斎の墓

真誉朴斎浄證居士
この墓は万延元年5月13日
筆子中(子弟)によって建立されたものです
朴斎の碑

森朴斎翁碑銘
この碑は万延元年秋
子弟がその徳望を敬慕して建立したものです
碑陰

朴斎の辞世の句

「蓮のミの飛離たる別れかな」
次回は「正覚寺寺子屋遺跡」です
平方観音堂

埼玉県 上尾市 平方530-1

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2022年1月13日
カメラ:ニコン-Nikon D7500

埼玉史跡散歩 上尾を歩く
(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010
2022年1月13日訪問
平方観音堂(上尾市)
正覚寺(現観音堂)
明治6年廃寺

正覚寺は 明治6年廃寺となり
観音堂となっています

観音堂には森朴斎(もりぼくさい)碑と墓があることで知られています

朴斎は桑名の藩士で詩歌俳諧の道に長じ
平方近辺の子弟の教導に当たりました

上尾市指定史跡森朴斎碑と墓
観音堂(大字平方530-1)
森朴斎は桑名藩(三重県)の医師で、名は彰、弘化年中(1844~48)に平方村に立ち寄り、名主の永島太十郎(太重郎)宅に寄留した。朴斎の学識を見込んだ太十郎は屋敷内に学舎を建て、地域の若者を集めた。十数年にわたり300余人が彼の人柄を慕い学んだが、万延元(1860)年五月一二日54歳で没し、正覚寺(現観音堂)墓地に葬られた。
指定の碑は高さ127cmで、正面上部に「森朴斎翁碑銘」とあり、戸井田広が撰文し、永島氏や門下生等により建立されたといわれる。
碑文によれば、朴斎のほか「喜良久」「独立庵」の二つの号を持っていたとされる。俳諧を嗜み、身なりに頓着しない生活ぶりから朴斎の号をとったとある。碑陰に「蓮のミの 飛離たる 別れかな」の句が刻まれており、朴斎の辞世の句とされる。万延元年五月一三日付けで筆子中によって建てられた「真誉朴斎浄證居士」とある墓も境内に残されており、碑と共に文化財に指定されている。
上尾市教育委員会
朴斎の墓

真誉朴斎浄證居士
この墓は万延元年5月13日
筆子中(子弟)によって建立されたものです
朴斎の碑

森朴斎翁碑銘
この碑は万延元年秋
子弟がその徳望を敬慕して建立したものです
碑陰

朴斎の辞世の句

「蓮のミの飛離たる別れかな」
次回は「正覚寺寺子屋遺跡」です
平方観音堂

埼玉県 上尾市 平方530-1

(Mapion地図にアクセス)
撮影:2022年1月13日
カメラ:ニコン-Nikon D7500


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(C)heihei's studio 2010
へいへいのスタジオ2010